苦い恋の味(金環蝕)


「悪いけど、吸っていいか?」
 真鍮製の容器から取り出した巻き煙草を軽く掲げて将軍が許可を求めてくる。ヤヨイは驚きに瞬いて、困惑しながら頷いた。
「どうぞ……」
 煙草の煙は魔をざわめかせる。里では誰も好まない。むしろ倦厭されている。だから彼がヤヨイの前で喫煙したことはこれまで一度としてない。今回が、初めてだ。
 将軍にその習慣があることは知っていた。彼の衣服や、手に、時折その匂いが染みついているからだ。その香りを、嫌いではなかった。
 ヤヨイは毛布ごと膝を抱えて将軍を見た。火の番を務める将軍は、煙草を吹かしながら片手に握った枝で薪を突っついている。ぱちり、と熾火が爆ぜる。将軍の端整な横顔が照らされた。
(なんてきれいなひと)
「どうした?」
 視線を感じたのか、将軍がヤヨイを見て小首をかしげた。不躾にじろじろと見ていたことに気恥ずかしさを覚えて慌てて目を伏せる。
「申し訳ありません。珍しかったのです。将軍が煙草を吸うところを、初めてみたんですもの」
 ヤヨイが正直に告白すると、将軍は声を上げて笑った。
「里じゃぁ子供もいるしなぁ」
「私は将軍と何回も何回も里の外に出ていたと思いますが?」
 二人きりの時なら構わなかったのではないか。
「ヤヨイだって子供だったじゃないか」
(あなたにとってわたしは、ずっとこどもでしょう?)
 ヤヨイが将軍と出逢ったのはまだ片手で数えるに足る年だった。彼の目に映る自分はいつまでも人の身には危うい魔の量に苦しんで泣く子供のままのように思う。
「ヤヨイはもういいだろ。もう二十歳だ」
 ヤヨイは驚きから顔を跳ね上げた。将軍がむっと不愉快そうに口元を曲げる。
「なんだよその反応。ご存知だったんですか? って顔。あんま面白くないぞ」
「だって……あぁ、長老たちからお聞きになったからですか? もしかして」
 ヤヨイは、まもなく二十歳で、それまでに婿を誰にするか決めるよう言われている。が、なかなか答えを出さぬヤヨイに長老たちが苛立っていることを知っていた。将軍に相談した可能性はおおいにありうる。
「長老たちから? いや、ヤヨイの年齢ぐらい自分で数えてるさ。ちゃんと。あたりまえだろ」
 うそつき、と反射的に罵りかけて、やめた。だが顔には言葉が出ていたのだろう。ラヴィが渋面になって、薪を突くに用いていた小枝を腹立ち紛れに火へ投げた。乾いていた枝は一息に炎に包まれ、端から炭化していく。
 ふいに将軍の手がヤヨイに伸びた。いつもなら軽く頭を叩いたり、撫でたりするにとどまる。しかし今回に限って将軍は五指を乱暴にヤヨイの髪の中に潜り込ませてきた。
 反射的に、身体が強張る。これまで誰もそういった触れ方をヤヨイにしてきたことはない。そもそも触れられたことすらあまりない。異性に対する免疫を、ヤヨイは持たない。ヤヨイの生で最も身近にいる男が、他ならぬこの将軍なのだ。
 将軍は立てた片膝に頬杖を突き、開いたもう一方の手で無造作にヤヨイの髪を弄んだ。ぐしゃぐしゃと掻きまわし、引っ張り、ときに舐るようにゆっくり梳き下ろす。その間、将軍はヤヨイの反応を楽しんでいるのだろう。笑みに目を細めていた。艶めいた笑みだった。
 将軍が煙草を指に挟んで口から離す。
「早いよなぁ」
 彼はヤヨイの髪のひと房をくるくる捩じって言った。
「話を聞いて、ちびこいヤヨイに会いにいったの、ついこのあいだだった気がすんのにな。あっという間にこんな風にきれいになるから、ずるいよなぁ……」
「……なにが、ずるいんですか?」
「んー? 時間」
 将軍は手をヤヨイから引き戻した。
「いつも気が遠くなるぐらいに進みゆっくりな気がすんのに、ヤヨイといると、あぁもうこんななんだなって思うから不思議だよ。ずるいなって思うよ」
(将軍のほうが、ずっとずるいですけど)
 紅潮していることを悟られたくなくて、顔を抱えた膝に押し付ける。火の爆ぜる音と、将軍の深い吐息の音だけがしばらく響いていた。
「ヤヨイ」
「はい」
 夜の安らかな静寂に身を任せていたヤヨイは、呼びかけに応じて面を上げた。将軍が、笑っている。彼は獲物を定める猫のような目をして、吸いかけの煙草をヤヨイの方へ差し出した。
「吸ってみる?」
 睡魔もあってか頭がうまく働かず、驚いたり、非難したり、憤ったりといった反応を返すことができなかった。ヤヨイはのろのろと身体を動かして、将軍から火のついたままの煙草を受け取った。
「思い切り吸うなよ。煙を口の中に溜めて、吐くんだ。胸まで吸うと気持ち悪くなるから」
 そう助言を受けたが意味をなさなかった。将軍の危惧する通りに吸い込み過ぎて、咳き込んだ。
「あぁ……大丈夫か?」
「はい……」
 将軍がヤヨイの背中をゆっくり擦る。彼の動きに合わせて煙草を吸い、ヤヨイは煙を口の中でくゆらせた。
「そうだ。それで、そっと、吐く。そう、上手だよ」
 香りをまとわりつかせた手が、煙草の代わりといわんばかりに、ヤヨイの髪や頬や耳を味わっていく。ヤヨイは将軍を見た。嬉しそうに笑う男の顔がそこにあった。
「かわいいなぁ、ヤヨイは」
 最初で最後の煙草は、苦い恋の味がした。