遺言(永久楽園のこどもたち)
残暑の厳しい秋の初め。
「よろしく、頼みます」
病室の個室のベッドに横たわる老人が僕に言った。その声音は掠れていたけれど、目は強い光を宿していて、有無を言わさぬ迫力を感じさせる。
彼は翁と呼ばれている。僕を兄と慕ってくれている子の祖父だった。その多忙な子に代わって今日は僕が翁を見舞っている。
小柄ではあったけれど矍鑠(かくしゃく)としていた頃の面影はなく、痩せ衰えた身体は見て痛々しい。
ごっそりと筋肉の削げ落ちた腕。浮き出た青い血管。そこにしかと刺さった点滴の針。太いチューブは規則正しく薬と栄養を送り続ける。
「……あの子たちを、よろしく頼みます」
医薬品と体臭が入り混じって香る白い寝台の上で翁は繰り返す。僕の手を握りしめる彼の手を、振り払いたい衝動に駆られる。彼の手が不快だったわけではない。僕の手が、彼の命を吸い取ってしまうのでは、と、思ったのだ。
僕は、死神そのものだから。
震える僕の手に冷えた手を重ねたまま翁は続ける。
「あの子たちは、今の世を生きるにはあまりに行きづらい気性をしている。無知と怠惰を善しとしない。他とは均一になれず、あの子たちはかならず飛び出してしまう。そしてあの年にしては十分すぎるほどに苦しんだ。大人なら死を選ぶほど。あの子たちは人を呪っている。呪うように憎んで、同時に愛している。危うく脆い子たちです。世界と折り合いを付ける術を身に着けるにはまだ何年もかかる……だのに、私は逝かなくてはなりません」
だから、代わりに。
「お願いします。お願いいたします。あの子たちをどうか、もう少しだけ、見守っていてはくれませんか。どうかよろしく頼みます」
翁が気に掛けている子どもたち。彼の孫。その幼馴染みたち。僕のかわいい弟妹でもある。僕が久々に持った家族同然の、子どもたち。
翁は大企業の総帥であり、一族の長老でもある。彼の下に多くの者が跪く。
その翁が二十歳そこそこにしか見えない僕に頭を下げている。何も知らない者が今の状況を見たら仰天するだろう。
「……僕たちがここを離れようとしていることに気付いていらっしゃったのですね」
僕が言うと、翁は微笑んだ。
「長くはひとところに留まれない。そうでしょう?」
「……僕たちが何なのかご存知なのか」
「昔、あなたと同じような方にお会いしたことがある。世界大戦の折だった。私はその方を助けた。そして助けられた。その結果、今の私と私の一族がある」
そのようなこともあるのだと思う。僕らは時代を渡っている。則に触れない範囲で、人を助けたことは多くある。そのいくつかは彼らに繁栄をもたらしただろう。そういったこともした。
けれども。
「僕らを無条件に信じないほうがいい」
僕らの一族はこの世界に生きる人々とは一線を画す。僕らは前世界の人間だ。単なる世界の調律師。神という概念にひとしいものの、奴隷にすぎず、時によっては村を、町を、国を焼く。
「私は信じます」
翁は強く断言した。
「あなたは、私のかわいい孫たちを、愛しておられる」
僕はぐっと息を呑んだ。
翁の言葉は真実だ。僕は弟妹たちがかわいい。
だからこそ、則を破って、もう三年近くこの町にいる。
僕は瞼を閉じた。屈託のない笑顔で僕を兄と呼ぶ。その存在がどれほど愛おしいか。しかしその情愛を噛みしめるたびに、古傷がうずく。
「お頼み申し上げます」
翁は僕に懇願した。やめてください、と、僕はとうとう翁から手を離した。
蝉が泣いている。夕刻。橙色の空が目に染みる。
――言われずとも。
僕は弟妹たちを、この老人の孫たちを、見守り続けるだろう。それがどれほど愚かと呼ばれる行為でも。
とうに限界として定める二年は過ぎていた。
僕は願った。痛いほどに。あの子たちに幸せを。僕のすべてを、あげるから。
そうして僕は、間違いを犯す。
この秋から、半分だけ季節が廻った、そのときに。