灰が降る(世界終末童話)


 世界が鉛色に染まっていく。
 灰が降ることはいつものことだったが、その度合いが今日はことのほか酷かった。いっこうに止む兆しを見せず、むしろ勢いを増すばかりのように思えた。窓から見える灰の降り方は、《雪》と同じなのだという。そう聞かされて、ユキは窓から灰に塗りつぶされる街並みを見ていた。自分の名の下になっている自然現象を見たことがない。こんなもんなのかな、と、呟いて、ユキは窓に背を向けた。窓の硝子が氷のようで、身体も冷えはじめていた。
「コウ、何してんの?」
 ユキは思わず問いかけた。
 静かだと思ったら、もす、もすっ、と、ひとりの男がソファーの周囲に大量のクッションを敷き詰めていた。クッションだけではない。毛布、ブランケット、書籍が数冊――ワーキンパッドのデジタル本ではなく、古典的な紙の書籍だ――、そして、ミニテーブルの上には淹れたてのコーヒー。
 男は、んー、と生返事をユキに寄越して、おかしいほど懸命に、ソファー周辺の環境を整えている。
 男は、ユキの保護者だ。公にはヒロと名乗っているが、ユキだけはふたりきりのときコウと呼ぶ。それが本当の名前なのだという。
 問いを流されたことに若干苛立ち、ユキは再び尋ねた。
「ねぇ、何してんの?」
「ごろごろする準備」
 ぽんぽんとクッションのひとつを叩いて、彼は言った。
「どうせこの灰じゃ部屋から出られないし。つか、出たくないし。本でも読んで過ごそうかと思ってさ。お前もこいって。寒いだろ、そっち」
 ユキは肩をすくめると、男の下へ、とことこ歩み寄った。
 遠慮がちに近寄ったユキを、コウは容赦なく抱き上げて膝の上に落とした。抵抗の意を示すためにわずかに身じろぎ、まったく、と毒づきながら保護者を見上げる。まだ若い、青年といって差し支えない男は、しししと笑って、ユキを背後から抱き寄せた。
「あー、子どもってあったかいよなぁ」
「おれ、ゆたんぽじゃないし」
「いいじゃんかたいこというなって」
 今日のコウは甘えただ。彼がべたべたと触ってくるとき、ユキはたいてい抵抗する。けれども、本心から嫌というわけではない。ただ、気恥ずかしいのだ。単なる保護者の男に甘える少年。うん。うつくしくない。
 ユキは世間一般の父親がどのように息子へ接するかを知らない。コウはスキンシップが多い気もする。けれど、こんなものなのかな、という気もする。ときどき、まあいいか、と捨て鉢な気分で、甘やかされるのを享受もする。
 コウはユキにとってたったひとりの家族であり、父親だった。血のつながりは、おそらく、ない。ない可能性の方が高い。が、まったくないとは言い切れない。そんな奇妙な男なのだ。コウは。
 自分たち《イヴのこどもたち》の父親はばらばらだ。精子リストにこの男の名が連なっていたから、誰かは彼を父親に持っているのだろう。それが自分である可能性は限りなく低い。それが、少しさびしい。
「だるそうだね、コウ」
 ユキに重心を預けるコウの体温は低く、顔色も悪そうだった。コウは少し笑って、ユキの頭をくしゃりと混ぜた。
「灰が降っていると、頭の中がざわざわして落ち着かないんだ」
 灰は男の能力を倍加させる。灰は彼が人間であるために制御している力すべてを解放してしまう。するとその力に《酔い》やすくなる。その力を使うべきか否か、彼の頭の中ではいつも問いがせめぎ合っている。
「でもお前といると、落ち着くんだよなぁ」
 コウはそう言って屈託なく笑い、今度はユキの髪を丁寧に撫でつけ始めた。
 ユキがコウにとって精神の安定につながるのは、ユキがコウの同類。もしくは、《イヴ》の子どもだからだ。
 男が命を懸けて愛している女の子ども。男が命を懸けて探している女の子ども。
 世界の花嫁の子ども。
 ――イヴ。
 どうしてここにいるのが、あんたじゃなくて俺なんだろう。
「ユキ」
 コウがユキを見下ろして気遣わしげに呼んだ。
「どうかしたか?」
「……何でもない」
 ふぅん、と、男は追求することなく本を手に取った。その広げられた紙面に視線を落としていると、また、頭を撫でられた。撫ですぎなんだよ、と、青筋を立てながら、それでも、コウに労られるその一瞬を、幸運だと思う。

 灰の日は嫌いではない。コウと暮らすようになって特に。こんなふうに、くつろぐ時間を与えてくれる。与えられた時間が長くないことをよくよく承知していたから、こんな風におままごとめいた関係でも、親子じみたことができるということが嬉しかった。
 後にコウとわかれてからは――灰の降り積もる日の静けさと彼とのやりとりを、思い出す。