幕開け(広漠たる砂のスルターナ)


「この国は熟れて崩れた果実」
 円天井の連なる回廊を、本宮に向けて行きながら、ファティが自らに言い聞かせるように呟きます。
「地に墜ちて、腐れるを待つばかりの」
 繰り返し繰り返し。
 この国は熟れて崩れた果実。地に墜ちて腐れるを待つばかりの――……。
 砂の帝国アハカーフ。わたくしたちの国はまさしくあまやかな腐臭を放つ果実そのもの。
 先だっては長らく西大陸全土を支配していたメイゼンブルが滅びました。この国もまた生か死かの天秤にかけられているのです。けれどもそれは度々あること。砂漠の苛烈さは無能が頂点に立つことを許さない。
 いいえ、皇帝は、ファティの父、タヘル・イルクラム・アハカーフは、才を持たないわけではありませんでした。無能ではなかった。暗愚ですらないのです。皇帝タヘルは恋着に生きた人。ただその度が過ぎただけでした。
 回廊の終わりの部屋の前でファティが立ち止まって人払いを。その自らの御手で開いた扉を潜り、そしてすぐさまに膝を突きました。
「母上、ご機嫌麗しゅう」
 ファティに面差しのよく似た美しい貴婦人です。微笑は柔らかく、けれどもその目はどこも見ていませんでした。
「……アハド? アハドはどこ?」
「異父兄(アハド)はここにはおりませんよ、母上」
 ファティが生まれる前に王は妃から皇子を取り上げました。物静かだが明晰な少年だったといいますが。その場で切り捨てられたとも、奴隷として払い下げられたとも、従者と密かに落ち延びたとも聞かれます。ですが、おそらく。
「アハドはまぼろばの地です」
 その皇子の実父であり、タヘルの先代の名をバシアーシャ。
 血縁上はタヘルの従兄弟であり、義兄でありました。タヘルの妻はサイーデ。タヘルの実の妹であり、そして現在の后であり、そしてファティの母であります。
 タヘルは実の妹に恋慕し、バシアーシャを殺し、彼から妹を奪い、ファティを生ませた。
 アハカーフは歴史を見ても近親婚の多い国柄です。だからこそ、実の兄弟姉妹間の婚姻だけは禁忌としている。それを罪としないためだけに皇帝となった男。綿密に周到に準備と支援者を整え、人が良いだけのバシアーシャよりも栄光の時が得られると多くの者たちに錯覚させました。それがタヘル・イルクラム・アハカーフ。
 妹御を手に入れた今。正しくは、妹御であるファティの母君に拒絶された今、国のことなどどうでもいいといいたげに、皇は国を放置し続けている。
 サイーデ妃は引き離された皇子を求めて泣きます。
 ファティが優しく笑います。
「母上、どうか安らかに――兄上の下へとお逝き下さい」
 すべての始まりの合図として。