雪解け(さやけくこひたもう)
灰色の紗幕に覆われた世界の色合いは水墨画に似て、ヴィヴィッドにペイントされた看板やネオンサインですら、どこか精彩を欠いて見える。
息は吐く度に白く凍てつく。わたしは霧のようなそれの隙間から、隣に歩くひとを盗み見る。暁人さん。今日はお互いに機嫌が悪く、覚えていないぐらいに他愛ない切っ掛けで口論になった。帰り道、わたしたちはずっと貝になっている。
わたしはひときわ細く、深く、息を吐いた。どうしてこうなったんだろう。わたし、今日を楽しみにしていたはずなのに。暁人さんだってわたしのために、いろんなことを我慢してやりくりして、時間を作ってくれたのに。
暁人さんの整った横顔は、かたく、強張っている。並び歩く距離がいつもより、ほんのすこしだけ、遠い。
それでも暁人さんはわたしをきちんと家まで送る。帰ってください。今日はもう。そういうこともできたけれど、口にすることは躊躇われた。それっきりになってしまうことが、怖かった。
電車を降り、住宅街に入る。この寒さのせいか、一戸建てが両脇に軒を連ねる細い道を往く人は、わたしたち以外に誰も見られない。
ここからわたしの家までもう、十五分もない。
わたしは暁人さんを見上げ、その黒コートに付着する、あわい綿毛らしきものに目を止めた。
首を傾げるわたしの視界を、はらり、と、ましろが躍る。
――あぁ、ゆきだ。
わたしは空を仰いで目を細めた。粉雪が、しんしんと、しんしんと、降りそそいでいる。
頬に触れる凍む空気は、渇いて、電信に切り取られた夜の街は、薄氷の箱に閉じ込めたみたいに、静かだ。
ふたり分の、呼吸音だけが、ひそやかに雪降る音に混じる。
わたしは赤さを増した指先に、はぁ、と息を吹きかけた。今日は手袋を忘れてしまっていた。お気に入りのコートは先日紅茶を零して染み抜き中。スカートはホックが壊れて――あぁ、朝からどうにも決まらない一日だって、思っていたの。
じわり。なみだが浮かんで。すん。少し、鼻を啜った。
すこしでも暖をとろうとポケットを探っていたわたしの手を、ふと、暁人さんのそれが捕らえた。
あたたかい手。驚きに瞬き、わたしは彼を振り仰ぐ。暁人さんは、眉根をきゅっと寄せて、唇を引き結び、わたしを見ていた。
わたしの指を握りこんで、暁人さんは前を向いた。
「……ゆき、つめたいね」
彼は言った。
「……そうですね」
傘を持たないわたしたちの髪に肩に指先に、六花はぴたりと張り付いている。
わたしは暁人さんの手を、強く握り返した。
「アキさん、ごめんなさい」
絞り出すような謝罪に込められた切実さに、彼は気が付いただろうか。
暁人さんはゆるりと首を振る。
「僕もごめん」
暁人さんは、繋いだ手を引き寄せて、反対の手でわたしの肩を抱いた。頬が彼の胸に当たる。そのあたたかさは、今日初めて感じるものだった。
彼の唇が触れる。濡れた髪に、涙溜めた瞼に、赤らんだ頬に、乾いた唇に。
繋がれた手の上で、雪が、あわく、とけていった。