その男は(FAMILY PORTRAIT)


 すっきりした。
 口出しすんなよって、本当に腹が立ったんだ。いくら彼女だからってさ、人の家庭のこととやかくいうなってそう思った。俺、あんだけ彼女のこと好きで好きでたまらなかったはずなのに、もううっとおしくてうっとおしくてたまらなかった。いいじゃん。うわっつらだけの家族なんて俺はほしくねぇんだよ。俺、大学卒業したらがっつり稼げる職について親とは縁切るつもりだった。アホウだったんだ。だってアパート借りるにしても保証人で親とかいるんだ。それなのに、縁切るとかってさ。反抗期だった。
 親は大事にしなきゃだめだよ。家族だよ。もっとちゃんと話し合わなきゃだめだよ。うるさいっつうの! だから別れようっていった。すっきりした。ぐちぐち口出す五月蝿い女が消えてさ。
 本当馬鹿だった。大好きだったんだ。俺、彼女のそういうお節介なところが大好きだった。俺を今のダチと引き合わせてくれたり、大学生活をこんなに人に囲まれた楽しいものにしてくれたのだって、彼女のおかげだったのに。
「あんた馬鹿じゃない!?」
 俺と彼女が別れた経緯を聞いて乗り込んできたのは、彩夏だった。
「あんた、彼氏でしょ!? 知らなかったの!?」
「なに、なにがだよ!?」
 何を知らなかったっていうんだ。別れたことに文句いうんだったらまだしも、わけわかんないこというなよ。睨み付ける俺に、彩夏は泣きながら叫んだ。
「ゆとりはねぇ、ご両親、死んでいないのよ!? あのこ、天涯孤独なのよ!?」
「……は?」
 天涯孤独?
 なんだそれ。だってあいつ、家族としょっちゅうメールしてたじゃん。
「ご両親の知り合いだった人の家に、居候、させてもらってたんだって」
 唸るような呟きだった。
「大学の学費も生活費も、奨学金除けば、全部、そのおうちの援助だって。赤の他人の家に、突然ご両親なくなってから、あの子ずっといたんだって! そりゃメールするでしょ! だって援助してくれてるおうちに報告いれんのは義務じゃない!? ――なんで彼氏のあんたが、それしらないのよ!?」
 事故だったらしい。高校のときに、ある日突然両親は亡くなったらしい。親戚らしい親戚も頼れる人もいなかった彼女は、援助を申し出た一家に居候することになったのだと。
 その日まで、全く見知らぬ存在だった、赤の他人の家にだ。
 馬鹿じゃない。なんてことしたのよ! なんてこと、あのこにいったのよ!
 彩夏の叫びも景色も、全部遠くなった。
 急に、彼女の笑顔と、最後の縋る様な叫びが甦る。
『かぞく、だいじにしなきゃ、だめだよ!』
 彼女は、それをしたくても、もうできない。
 ざっと青ざめて、俺は彼女のアパートに走った。雨が降っていたけれど、傘を差すのも面倒だった。彩夏の話を聞くまで、すごくすごく気分爽快だったのに。
 震える指で、俺は彼女の部屋のインターフォンを押した。あれだけひどい台詞、彼女にぶつけて一方的に別れたのに。
 俺、なんて。
 言えば。
 留守か、と思えるぐらいに長い間、扉は沈黙していた。そのことに、半分泣きたくなって、半分、安心していた、卑怯者の俺。
 帰ろうかと、来た道へつま先を向けた俺の鼻先で、唐突に、扉が開いた。
「――……っ!?」
 現れたのは、彼女じゃない。
 男の俺から見ても、度肝ぬかれて唖然となる、美形の男だった。
「何の用事だ?」
 玄関から出て、扉を後ろ手に閉めながら、男は言った。一瞬、部屋を間違えたかと思ったけど、表札は確かに彼女の苗字になっている。
「な、あ、ん、あんた、誰だ?」
「何の、用事だ?」
 男は腕を組んで、玄関の扉に寄りかかった。う。なんだモデルみたいに一挙一動が決まる男だ。本気誰なんだこいつ。
「ゆ、ゆと」
「アレは今寝てる」
 男は玄関の扉を、その向こうを透かし見るように一瞥して、呟いた。
「今更謝りに来たとか寄りを戻しに来たとか馬鹿げたことをいうなら最初からするな帰れ」
「ふざけんな! 俺とあいつの問題だろ!?」
 かっと頭に血が上って叫び返したものの、男の一睨みで俺は動けなくなる。悲鳴上げたいぐらいにすっげぇこえぇ。声が、喉に張り付いて出てこない。
「帰れ」
 冷ややかに男は言った。
「もう関係ないだろう。切り離したのはそっちだ。これ以上、あいつの傷を抉るようなまねはするな。少しでも、あいつのことが好きだというのなら」
「そんな、こと」
「どうせあいつは整理がついたら、傷ついてもお前のところに友達でやり直したいとかなんとかぬかしに行くに決まってるんだ。何か言いたいことがあるなら、その時を待て――待ってやってくれ」
 今は駄目だ。頼む、と。
 男はさっきの不遜な態度が嘘みたいに、背筋を正して頭を下げた。
 一方の俺は混乱の嵐だ。なんで見知らぬ、しかもモデルもご免って平伏するような、はちゃめちゃ美形の男に口出しされ、あまつさえ頭下げられなきゃいけねぇんだよ彼女のことで。
 呆然と立ち尽くす俺の耳に、聞き慣れた声が、届く。
「おとわ? おとわ、どこいったの?」
 扉越しの、くぐもった声。
 男は俺を玄関から見えない位置に押しやると、扉を開けてアパートの部屋に顔を出した。
「ここだ」
「……なにやってんの?」
 彼女にとって死角っつうことは、当然俺からも彼女の姿は見えない。けれど声がひどく擦れていた。
「保険屋のアンケートに答えてる」
 彼女の問いに応じた男の声は変わらずぶっきらぼうで抑揚がないのに、さっきとは全く違って、砂吐きたくなるぐらいに柔らかかった。
「は? 保険屋さん?」
「すぐ終わる。目が覚めたなら顔洗って来い。ひどい顔だぞ。十人並みが不細工になる」
「あんたのイヤミのほうがひどいよ」
 男の言葉に応じる彼女の声に、傷ついた様子はない。くすくすと、笑ってすらいる。
「顔洗ったら服も着替えろ。飯に行く」
「うん」
 彼女が頷いたのを確認して、男は扉を閉めた。
 男と、目が合う。
 黒い瞳を細めて、男は俺に言った。
「せいぜい、しばらく苦しんでろ。あいつを傷つけた、報いだ」
 
 結局、男は自分が誰で彼女とどういう関係なのか俺に告げなかった。むしろ俺があれこれ憶測してへこんだりするのを望んでいたんだろう。
 俺が、この胸のつっかえをようやっと取り払うことができたのは、あの男の予想通り、彼女が俺のところに、友達でやり直したいと笑いながら握手を求めてきたときのことだった。
 そしてそれまでに、とてもとても、長い間が空いた。
 それが彼女の傷の深さだと知って以来。
 結局俺の心が、本当の意味で。
 晴れやかになったことはない。