仮面を剥ぐひと(弱酸性雨)


 その人も、委員長という役柄をよく押し付けられるらしい。
 私が一年のとき、その人もクラス委員だった。二年に上がって私が委員長に選ばれたときも、その人は三年のクラスで委員長を務めていた。聞けば、中学の頃からずっとそうなのだという。
 私はその人の隣が居心地よくて、私にしては珍しく積極的に隣にいようとした。他の人のときには上手くできるのに、その人の前では作り笑いができない。ぎこちなく表情を浮かべる私を、その人は微笑んで受け入れてくれる。私はその人の隣で委員会の仕事をした。会話は少なかった。沈黙が心地よくて、私はよく黙った。

 その人からは、傷の気配がした。少し控えめにその人は笑う。その、大人びた笑いから、傷の気配がした。

 だからかもしれない。驚いた。街で見かけたのは偶然だった。その人は男の人と連れ立って歩いていて、子供の顔をして笑っていたのだ。そしてその男の人を確認してさらに私は驚いた。あの人と、同じ子供の顔をして笑う、その男の人は。

「梓は、妹尾先輩と付き合ってたんだっけ?」
「付き合ってないよ?」
 私の問いに友人は即答する。
「でも確か、付き合ってるって噂があった」
「私言ってなかったっけ? 付き合ってないよ。私が勝手に付きまとってただけ」
 ストーカーだよ、ストーカー。そんな風に茶化していう友人は、一拍置いて首を傾げた。
「珍しいね。妹尾先輩のこというなんて」
 確かに珍しいかもしれない。あの、芸能人かくやという美形に、学校中の女子が憧れを抱いているのは知っているし、遠目でも近くからでも見たことがある。狭い学校だ。すれ違うことだってよくある。
 それでも、私はいまいちあの人が好きになれなかった。
 ――なんというか、綺麗すぎる。人間ではないみたいだと、思ったのだ。
 さらに、あの人の作り笑いが私は好きになれない。画一的な笑い。私がいつも浮かべる笑みのようで、吐き気を覚えるのだ。
「あのひと、彼女さん、いたっけ?」
「……今はいないってことに、なってるねぇ。どうして?」
 なんと答えていいのか迷う。友人は私と異なり、『妹尾先輩』が好きでたまらないからだ。それも他の女子のような『信奉』とは異なる。妹尾先輩のことを見るとき、少し寂しそうな、胸の痛みを堪えているような、微笑ましく思うような、様々な感情の入り混じった表情を浮かべる友人が、ただ彼を『信奉』しているだけとは思わない。
 唇を引き結んで黙っていると、彼女は問うた。
「……もしかして、見たの?」
「……え?」
「散里先輩」
 私は驚きで目を瞬かせた。何故、知っているのかという言葉が、ありありと顔に出ていただろう。
 友人は笑い、声を潜めて言う。
「黙っておいてあげてね」
「……知ってたの?」
「うん」
 友人は頷いた。
「……でも先輩たち、内緒にしておきたいみたいだから。判る気するんだよね。妹尾先輩カリスマありすぎだから、散里先輩に嫌がらせとかありそうだもん」
「……妹尾先輩とお付き合いしてた人で、嫌がらせとかで分かれた人がいるの?」
「え? さぁ……ないんじゃない? 私が噂されたときもぜーんぜんだったし」
「じゃぁ何故?」
「妹尾先輩が、本気だから」
 友人の瞳は真剣で、どこか泣きそうだった。
「……ほんき」
「幼馴染なんだって。すごく大事なんだって。先輩の口から聞いたの。本当だよ」
「……そう」
「……え? もしかして妹尾せんぱ」
「好きだったとかヤな冗談いうのはよして」
「……だったらなんで寂しそうなの?」
 妹尾先輩はどうでもいい。
 問題は、あのひとなんだから。
 私は女の子に恋心を抱く趣味は持ち合わせていないけれど、慕っていた先輩が、私があまり好きでない男に取られていたというのは、あまり心穏やかなものではない。
 でも、なんだか判る気がするのだ。
 あの人は、人の仮面をあっさり剥ぐ。
 あの人の隣にいると、自分を繕う必要がなくなる。
「……どうだった? 先輩たち」
 友人の問いは、まるで遠く離れた愛しい人々の近況を尋ねるときのように、穏やかで優しい響きに満ちていた。
 幸せそうだった。
 即座、こみ上げてきた答えを、私は舌先に乗せる前に飲み下す。
 そして、代わりに呟いた。
「……妹尾先輩が、ただの人に見えたわ」
「……何ソレ?」
 私は笑った。意味など判らなくていい。私は今まで、あの人が人間に見えなかった。そんなことを、あの人に好意を寄せている、大事な親友に話してあげるつもりはない。
 みちる先輩の隣で笑うあの綺麗なものは、単なる綺麗な人に見えた。
 私は繰り返す。
「本当に、ただの人に見えたの」
 私が優等生の仮面を被らずに、ただの無力な小娘でいられたように、ただの少年に戻れることを、崇拝の対象のようになってしまっている男は愛したのだろう。
 手をつないで屈託なく笑っていた男女を思い返し、私は一抹の寂しさを覚えながら友人に微笑んだのだった。