共棲者(女王の化粧師)


 二年弱の、奇妙な共同生活だった。
 共棲、と呼んだ方が正しいのかもしれない。
 自分たちは寄生していた。
 うつくしいリヴに。



 白々と朝日に染まりゆく空を背に花街を歩く。空の濃紺を押しやる様に夜は煌々と明かり焚かれ喧騒に溢れるその町は、燦々と降り注ぐ陽光から逃れるように眠りについていた。漂う乳白色の薄靄に紛れるようにして、掃除夫たちが丸石敷きの通りを掃き清めていく。人びとが闇に乗じて耽っていたみだらな行いの痕跡は、撒かれた聖水と磨き粉を手にした子供たちによって消え失せる。目抜き通りの賑わいを後目に、この街は気怠い沈黙に伏している。太陽が再び、西に消えるまで。
 街の果て、城壁に行きつくと、アスマは細い水路沿いに建てられた集合住宅の階段を上った。端の脆くなった段に丸まる猫を避けて、錆びの浮いた扉を押し開く。
 膠の臭気か漂った。
「おかえり」
 画架に立てかけられた絵に筆を走らす男は、背を向けたままアスマの帰宅を迎えた。まるで繊細な銀糸を織り込んだ絹綾のように揺らめく光に彩られ、いつもは深淵の闇に似た男の髪が虹色を散らして黒曜石の如く煌めいている。そこから続く、なだらかな項(うなじ)は白くなまめかしい。かと思えば肩は幅広く、国から国を渡ってきた者ならではの屈強さが宿っていた。
 アスマは男に答えず、隣室へと足を向けた。空気の篭った寝室ではリヴが子供のように安らかな顔で眠っている。顕になった彼女の華奢な肩を毛布で覆い、アスマは居間に戻った。男はまだ絵筆を動かしている。
 アスマは湯を沸かして、自分と――少し考えて、男のために珈琲を淹れた。南の商人が仕入れてくるこの飲み物は、頭にかかる霞を払うにはうってつけだった。男のものには少しだけ牛乳を垂らし、砂糖を二匙。彼は甘党である。
「服を着たらどうだい? エムル」
 珈琲を差し出しながらアスマは言った。下着姿の男は、小さく首を傾げる。
「君も人のことは言えないと思うけれどね。裸衣の上に外套を羽織っただけでよくここまで帰って来れるものだよ」
 せめてもう少し着込んでから通りを歩けと、リヴの夫である画家は小言を口にした。
「君がそのままだと、娼館近くに越さなきゃならない。危なっかしい」
 エムルは眉間に皺を寄せて珈琲を啜る。アスマは笑ってしまった。
「心配かい?」
「いなくなられたら気が狂うよ」
 冗談めかしにエムルが口にする言葉は淡々としていて、だからこそ、ともすれば愛のそれであると錯覚しそうなほどに情熱的だ。
 だがその意味を違えて捉えてはならない。エムルはリヴの為にアスマを望んでいる。アスマがリヴの為にエムルを望むように。
 黙って珈琲に口を付けるアスマの肩に、唐突に生成りの上着が落とされる。顔料特有の土くれめいたにおい――エムルの――が鼻腔を掠めた。黙って袖を通すアスマの傍ら、エムルは黙って絵を眺めている。
あどけなく、やさしい、彼の妻の寝顔。
 産毛が孕む光すら感じられるような神聖さを湛える絵。
「いい絵だ」
 アスマは素直に感想を述べた。
「そう?」
「あぁ……アタシは好きだよ」
 抱えた膝に顎を載せ、アスマは呟く。
「あんたの絵は、とても好きだ」
 敬虔な祈りにも似た。
 魂の不浄を雪ぐような。
「絵は?」
 エムルは苦笑していた。
「私も君の身体は、とても好きだよ」
「被写体として?」
「描きごたえはありそうだね。私の趣味ではないけれど」
「悪かったね」
 くすくすと笑って、アスマは絵を見つめた。エムルもそうしていた。
 洪水のように溢れる光と色彩に埋もれて。
 いつまでも。互いに選び取った生きる意味を。その肖像を。宿主を。
 死が別つまで、二人で眺め続けた、二年弱だった。