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8.

「……へぇ。じゃぁ結局うけるん?オーディション」
「そうやなぁ……アイドルなんて、博打みたいなもんやと思うけど。就職活動みたいな気分で、受けてはみよかな思うてる」
 どうせろくに勉強してない俺じゃ、えぇところにはもぐりこめへん。やったら、可能性のある場所にかけてみるんも、悪くはない気がした。実はあのオーディションの応募締め切り、今日になっとってかなり慌てた。朝から写真屋と郵便局に駆け込んだんやで。まったく。
 神崎さんからの連絡はまだない。朝、病院によってみると柳の意識が戻っとった。身体が動かせん状態なのは、変わらへんけど。
 本当は、喉を奮わせるんも、辛いんやろうと思う。細々と、聞き取ることすら困難な声で、それでも柳はしゃべっとった。
「ぷふっ……流がアイドル……オーディションうける、いうだけでも、信じられへん。……笑えるー」
「うっさいな俺だって柄やない思うとるわ阿呆」
「なんでその人おったん?」
「知り合いが歌ういうて、休み使って来とったんやって。で、終わった後で、トイレにいったらこけて気を失っとったらしい」
「……脳震盪?」
「まーものごっつうドジやいうことやな。テレビであんだけ踊って歌って、その間一度もこけんのが奇跡や思えるわ」
 口元に手をあてて、柳は堪え切れんというふうにくすくす笑う。小さな笑いやけれども、それでも死んだように眠っとる姿を見ているよりはましやった。俺も釣られて、笑った。
 笑っとるだけのはずやのに、どうして目頭がこんなにも熱くなるんやろう。
「流?」
「あー悪い。俺便所いってくるわ」
「……あんたねー。もうちょっと綺麗な言葉遣い出来へんの?乙女の前で」
「だーれが乙女や誰が。お前の前で綺麗な言葉使ってなんか得あるんかい」
「あたしの気分がようなる」
「……手洗いにいってくるわ」
 ぶっきらぼうに言い直して、俺は立ち上がる。柳の笑いがさらに大きくなったんを聞いて、俺は大丈夫かいなと天井を仰いだ。

「増嶋君」
 部屋を出ると、隣のナースステーションから声がかかった。すでに見知った顔になった看護婦が、受話器を差し出してくる。
「電話よー。神崎さんいう人から」
 俺は奪うようにその受話器を受け取って、もどかしく耳に当てた。受話器を差し出した看護婦が、怪訝そうな顔をしながらナースステーションの奥に引っ込んでいく。俺は深呼吸をして、覚悟を決めた。
「……神崎さん?」
『……今、でて来れるか?流』
 躊躇いがちに紡がれたのは、くぐもった声やった。俺は予想できる結果に戦慄しながら、それでも声を絞り出した。
「結果は……?」
 金を、借りることができるかどうか。
 受話器の向こうで神崎さんは回答を出さず、ただ、大阪にでてこい、とだけ繰り返した。

 喫茶店で合流した神崎さんは、俺を車に乗せて府内をしばらく走った。高層ビルの並ぶ灰色の街並み。蝉の鳴き声もほとんど聴こえへん。この四角い人を収めるための箱の中で稼動しているクーラーが、その排気によって、アスファルトの上に陽炎を作っている。
 夏の外には、色鮮やかな服装に身を包んだ人が溢れかえっていた。やけど、陽炎の揺らめきを通して、どこかそれらは遠い世界のものごとのように、俺の目には映る。
 車の中にはエンジン音と、ヴォリュームの抑えられたラジオの音だけが響いていて、俺と神崎さんは、終始無言やった。
 神崎さんが車を停めたんは、都会にえらい不似合いな、純和風建築の屋敷の中やった。驚愕している俺の肩を叩いて、神崎さんは言った。
「下りい、流」
 シートベルトをはずして外にでる神崎さんに、俺は倣う。
 そして外にでて、俺は息を呑んで瞠目した。
「……あ、あんた」
 この炎天下に、黒いスーツを身につけて、汗一つかいていない強面。
 目の前に立たれると、まるで岩山と対峙しているかのような圧迫感がある。冷たい黒い瞳がぎょろりと動き、視線が俺の元で静止していた。
北見。
 確か、この男はそう呼ばれとった。
 呆然となってその兄ちゃんを見上げる俺の横で、神崎さんが頭を下げる。
「よろしくお願いいたします」
「え?神崎さ」
「付いて来い」
 北見の兄ちゃんは、それだけ告げて踵を返した。遠ざかる背中と、神崎さんを見比べていると、神崎さんが顎をしゃくって俺に言った。
「何してる。早く付いていけや」

 通された部屋は、床張りの広い和室やった。そのど真ん中に据え置かれた座布団に、座るように指示された俺は、がちがちに緊張しながら、部屋の主が来るのを待った。
 街の喧騒は遠く、蝉時雨に混じって、獅子脅しの音が聞こえる。障子が開け放たれた部屋は風通しがよく、縁側には風鈴が釣り下がっていて、ちりちりと涼しげな音を立てとった。
 俺の背後には、北見の兄ちゃん。“休め”の姿勢で、俺をじっと見下ろしとる。正直言って、落ち着くことが出来へん。一秒が十秒にも二十秒にも引き伸ばされたように感じ、手のひらには、じっとりと汗が滲んだ。
かたん
 奥の障子が開いて、黒いスーツを着込んだ、とっぽい感じの兄ちゃんが顔を覗かせる。俺は身体に針金でも通したかのように、背筋をぴんと伸ばした。
とぼけた感じのする兄ちゃん――羽崎、やった確か――に続いて、和服姿のおばはんが現れる。
 羽崎の兄ちゃんに先導され、そのおばはんは一段高くなっている畳の上に腰を下ろした。けだるげに脇息にもたれかかる。蓮子、とかつて名乗ったおばはんは、俺を見て不敵とも取れる微笑に、紅の刷かれた唇をゆがめた。
「お久しぶりです。つっぱることはおやめになったの?増嶋流さん」

「……え……え?」
 もしか、とは思った。
 北見の兄ちゃんを見た瞬間に。
「改めて自己紹介を致しましょうか」
 蓮子のおばはんは、どこか艶然とも取れる微笑を浮かべて、静かに切り出した。
「紫藤蓮子、と申します。関西一体を仕切る紫藤組現組長を生んだのが、私ですの」
 ひらり、と着物の袖が揺れる。夏物の、桔梗が描かれた綺麗な袖。そこから伸びる白い手が、順番に二人の兄ちゃんを指し示した。
「こちらが、羽崎。そっちが北見。二人とも私の世話役です」
 羽崎の兄ちゃんが軽く一礼する。背後を振り向けば、北見の兄ちゃんも一礼の代わりに軽く目を伏せとった。
「うちの神崎の後輩なんですってね。まぁ不思議な縁もあること」
 口元に手を当てて、蓮子のおばはんは優雅に笑う。俺はただ、閉口して、目を白黒させることしか出来へんかった。
 とりあえず、混乱しとる頭の中を整理する。話から察するに、このおばはん、いや蓮子さん、は、俺が金を借りようとしとった神崎さんの所属する組の、ゴッドファーザーのおかん、ということになる。お方様、という呼び方を思い出した。古臭い呼び方やと思うたけど、今なら納得できる。素性を知った今では、その呼び方がこの人にぴったりや、思えた。
「……お金を、借りたいというお話でしたけれど」
 びく、と俺は身体を震わせた。穏やかな、声量を抑えた声やったのに、蓮子さんの紡ぎだしたその声は、この広い空間に伸びやかに、そして戦慄させるほどの鋭さを持って響き渡った。
「神崎が話したと思います。この組は、一般の個人にはお金を貸し出してはいません。信用ある企業、財政家のみに貸し出しています。企業の運営を円滑に進めていただく、その資金として。利子は高くない代わりに、いろいろ都合していただく。そのような方式をとっています。その辺りに転がっている、悪癖から抜け出せず貧窮している一般人に多額の金を貸付け、喜んでいるような陳家な問屋とは、比べて欲しくはありません」
 ぴしゃりとした言い方やった。俺は嚥下に喉を鳴らし、背中を冷たいものが伝い下りていく感覚を覚えた。
 今まで命の取り合いなんて数え切れんぐらいやったけど、危機感がまるで違うた。骨の髄までしゃぶられていくような、まとわりつく緊張感。その場にすぐにひれ伏したくなるような、圧迫感。そして重圧。
 この部屋にいるのは、たった二人の兄ちゃんと、一人の非力なはずの女だけやのに。
「ですがこれも何かの縁です。昨日も組のものに話したのかもしれませんが、もう一度、なぜ大金が至急いるのか……私と出会ってから今までに、貴方に何が起こったのか、今、起こっているのか、全てお話くださります?」
「……話したら、貸して、くれるんか?」
 俺はなんとかそれだけ訊いた。たった一言だけやのに、喉は一気に干上がり、汗腺という汗腺から汗が噴出す。それでも、俺はここで引き下がるわけにはいかんかった。これは、きっと最大のチャンスなんやと思う。命を懸けてもえぇところなんやと思う。
 何に驚いたんかは知らんけど、表情を動かしたんは羽崎の兄ちゃんやった。少し目を見開いて、俺の顔をまじまじ見つめとる。蓮子さんは嬉しそうに笑って、言葉を続けた。
「それは貴方次第です。流さん」

こんこんこん
 俺は車の窓を軽く叩いて、中にいる神崎さんに合図を送る。神崎さんは顔に乗せていた新聞を持ち上げ俺の姿を認めると、扉の鍵を開けた。座席を元の位置に戻し、エンジンをかける。
 俺は無言のまま、助手席に腰を下ろし、シートベルトを締めた。唇をかみ締め、前を向く。神崎さんがギアを入れながら、俺に言った。
「……泣くな。流」
「……っ………か、んざき、さ」
「泣くな。泣くべきところとちゃうやろう」
 俺は鼻をすすって、こみ上げてきた嗚咽をかみ殺した。滲む視界に、遠ざかっていく屋敷が見える。これから、年に二回、訪れることになるだろう屋敷。駐車場の入り口に、ここまで送ってくれた北見の兄ちゃんが、仏頂面でつったっとる。
 その姿が見えなくなる場所まで来て、神崎さんが読んどったらしい新聞を手渡してくる。俺は詰まる鼻をすすりながら、首をかしげた。
「……なんすか、コレ」
「面の右を見てみろ」
 言われるまま、表を向けて、字面に視線を走らす。飛び込んできた写真と記事に、俺はしゃくりあげた。
『オーストラリアにて、世界第三例目、生体部分肝移植成功』
 それは、日本人の幼児が、母親から肝臓の一部を譲り受ける手術が成功したという、記事やった。
『患者の経過は良好。前二例と異なり拒絶反応も特に見られず、術後三十日が経過した今日未明、医師団は手術成功と発表』
「……その執刀医と、医師団の中にはいっとった日本人医師を、非公式で呼び寄せてくれとるらしい」
 神崎さんはぽつりと漏らし、俺の頭を、子供をあやすような優しさで叩いた。
その手は暖かく、父親だとか、兄貴だとか、そんな感じがした。
 俺は手の中の新聞を握り締めてうなだれた。この記事が、夢でなく、神崎さんの言うたことも、本当なら、脳死提供のドナーを見つける、という問題も、同時に解決したことになる。
 生体部分肝移植は、血液型が適合する健康な成人なら、誰でもドナーになりえるからや。血液型が適合せん場合は、拒絶反応の可能性が高くなるだけで、ドナーにはなりえる。どちらにしろ、危険な手術なことには変わりない。
 幸い、神父のおっさん、つまり先生が、柳と同じ血液型やった。
 俺は、全部をつまらんとかぬかしとった昔の俺を殴りつけてやりたい。
 俺の周りには、こんなにも、祝福があふれとる。
「きっと上手くいくやろう。少し寝とけ流。京都に着くまで」
「神崎さ」
 白く霞んだ視界で、アクセルを踏む神崎さんが微笑んで言った。
「全部が終わって、上手くいったそんときに、思う存分泣けや」

「流さん!」
 京都の病院の待合室で、アキとそのほか数人の子供らをつれた先生が待っとった。その顔に浮かぶのは困惑で、さらに身につけとるものはいつもの神父の服とは違う、薄緑の貫頭衣やった。俺は駆け寄ってきたアキを抱き上げて、先生に歩み寄った。
「……何が、一体どうなっているのか、さっぱり、なんです」
 先生は頭を振りながらそう漏らした。周囲で子供らが騒ぎ立てる。俺の耳元でも抱き上げとるアキが、早口でまくし立てていた。
「すごかったんよーいっぱい人がばたばたーってきてねーちゃん連れて行くーって。しゅじつできるから、いうて。一番びっくりしとったん姉ちゃんやけどねー」
「兄ちゃんこれでねーちゃんの病気なおるん?病気治ったら一緒に買い物してえぇかなぁ。ここいーっぱいおもちゃ屋あるんやで。しっとる?」
「あのねー兄ちゃん俺えーがむらいうところいってみたい!げーのーじんおるんやろー?」
「兄ちゃん兄ちゃん」
「判った判ったから。ちょっとお前ら黙れ。他のやつらに迷惑やろうが」
 待合室は込み合ってはおらへんかったけど、それなりに人通りもあって、ジジババの視線がとっても痛い。機材を運んどった京美人の看護婦が、きっつい目線を俺に送ってきよる。俺は頭痛にため息をつき、先生に向き直った。
「……柳は?」
「病室です。もう少し容態が落ち着いたら、すぐに手術室へ入るそうです。そしたら 私も提供者として、中に入ります。子供たち、お願いできますか?」
「……あぁ、判った」
 俺は頷いて、アキを下ろした。頭を撫でてやると、嬉しそうに笑う。その腕にはいつものぬいぐるみ。しばらく俺はその顔をながめ、そして瞼を伏せて、先生に尋ねた。
「……今、柳と話できるか?」
「……えぇ」
 先生は、微笑んだ。
「柳さんも、貴方を待っていました」

 手術室に一番近いという個室の扉をあけると、空気が動いたんか、窓に掛けられたカーテンがばさりと翻った。
 蝉の鳴き声が近くなる。開け放たれた窓から、吹き込む風が涼しい。京都は奈良や大阪に負けず劣らず蒸し暑い。盆地やからな。病院は河のすぐ傍にあって、窓からは朱色の宝石屑を撒いたように煌々しい、夕日に輝く川面が見えた。
 早いな。こいつと会ったんは、冬やったのに。
 柳は、寝台に身体を横たえて目を閉じとった。呼吸器は外されとるけど、点滴やその他の管は相変わらずやった。ナイフで切り付けられたり、骨を折ったりは腐るほどある。けど、常に身体んなかに異物が入っとるっつうんは、ものごっつう気持ち悪くて、痛いもんなんやと思う。
 俺は椅子を引き寄せて、傍らに腰を下ろした。看護婦が編んだんかな。腰まで届く癖毛が、綺麗に三つ編みに結われとった。
「……お姫様みたいやろ」
 に、と笑って、柳が言うた。
「……お姫様やったらドレス着とらなあかんやろうが。こんな貧乏な姫があるかい」
 俺は椅子の背に体重を預けて笑った。柳が瞼を挙げて、少し眠たげな瞳を、俺のほうに向けてくる。
「シンデレラやって最初は貧乏からスタートやで」
「お前玉の輿に乗れるあてあるいうんか」
「目の前におるやん。未来のスターが」
「………おまえなぁ、俺まだ書類審査も通っとらへんって。大体俺どんな金稼げる職についたとしても、当分は給料すずめの涙や。悪かったな、王子様ちゃうて」
 眉間にしわを寄せて、俺は腕を組む。柳は手を伸ばして俺の腕に触れると、これ以上ないほどの穏やかな表情を浮かべて、呟いた。
「ありがとう、流」
「……全部、終わってから言え。そういうことは」
 車の中で泣いてもうて、神崎さんに叱咤されたことを棚に上げて、俺は言うた。なんなんよ、と柳が口先を尖らせる。そうしていると、ホンマ、ガキ臭い。
「……羽崎さんに会うたんよ、私。覚えとるよね。あの、流が助けてくれたおばさんを、連れてかえった人」
 唐突に、柳が呟いた。俺は組んでいた腕を解いて、柳に手を伸ばした。
「……俺も、会うた」
 額に張り付いている髪をよけてやり、頬に触れる。親指で、そっと唇をなぞる。柳はくすぐったそうに身体をよじり、俺に触れていた手を、俺のその手に重ね合わせた。
「その人が、流がどっか行ってから来て、……日本で始めての、生体肝移植になるって、いうとった。非公式やから、記録には残らんって。死んでしまっても、保険もなにも出えへん。文句はいうなって、神崎さんはいうとった」
 柳が唇を動かすたびに、吐息が指にかかる。まだ、呼吸をしている。俺は瞼を下ろして、あの屋敷で買わされた会話を、脳裏で反芻した。
『貴方の可能性に、賭けてあげましょう』
 蓮子さんは、全部話し終えた俺に、そう言うた。
『貴方は、人の出会いにとても恵まれているようですね。人に恵まれている人は、大きく成長するものなのです。未完成ですが、その可能性に賭けて、貴方の要望を叶えて差し上げましょう』
 それから、すでに肝臓移植に関する全ての手配が終わっていること。柳を、京都の病院へ移し終えていることを、あの人は告げてきた。
 驚く俺に、あの人は条件を出した。
 返金時期は二回。盆と正月。銀行への振込みではなく、俺が金を持って直接あの屋敷に赴くこと。
 その際に、半年間どんなことをしていたのか、報告すること。
 俺が、蓮子さんに認められるような人間になること。
その、三つが、金を借りるための最低条件やった。
「あたしなぁ、夢見てん」
 身体を俺のほうに向けて、柳が笑った。にまにま笑い。怪訝さに首をかしげながら、俺は尋ねる。
「……なんの夢や?」
「子供らと一緒に、テレビの前に座っとって、一緒に画面にうつっとる、流を見とるんやで。流、気持ちよさそうにギター弾いとった。すごいえぇ歌を、違う兄ちゃんが歌っとって、その横で」
「……へぇ?」
「なんかめっちゃえぇ歌やってん。あーなんで忘れてしもうたんやろ。アキが高校生になっとったんは、覚えとるのに」
 ものごっつう悔しそうに、柳が歯噛みする。むーと寄せられる眉間。俺は笑った。
「アキはまだぬいぐるみもっとったか?」
「学生かばんに、ぬいぐるみのマスコットつけとった」
「ううーん。三つ子の魂百までいうんは本当やったんか……」
 二人で声を合わせてしばらく笑う。だんだん日差しが傾き、部屋に差し込むオレンジ色が濃くなってくる。
 窓から吹き込んでくる風を少しきつく感じた俺は、立ち上がって窓に手を伸ばした。
「流」
 柳は今までとは違った震えた声で俺を呼んだ。見下ろすと、ほんの少し潤んだ目がある。けれど眼差しは強く、口元は笑っていた。
「……キスしてくれる?」
「柳?」
「一回だけでえぇねん。……それお守りにして、あたし行って来るから」
柳がそんな風に、俺に強請るんは初めてで。
 俺は窓を閉める手を止めて、椅子に腰掛けなおす。深呼吸をする。微熱の下がらない、柳の熱い手を握り締めて、祈る。
 どうか、こいつに、世界すべての幸運が、降り注ぎますように。
 俺の分を、使ってええから。
 俺は握る手のひらに力をこめて、ゆっくりと唇を寄せた。

その夜、柳は手術台に入り。
無事、先生の肝臓の一部を譲り受け。
そして、それから夜が明けて、一ヶ月近くたっても。
目を開けへんかった。



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