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 戦場において、兵士達の士気を奮い立たせ、生きろ生き抜けと励ます歌。
 戦乱の時、それはこう呼ばれていた。

 戦歌、と。


世界で一番優しい戦歌


 今となっては、彼女はとてもおしゃべりだ。
 が、あの頃セイは、彼女が歌う目的以外で声を上げているところを見たことがなかった。奇蹟の歌姫と呼ばれていた彼女は、兵士の士気を上げるため、セイが所属する大隊に、歌を歌わされに付いて来てきた。
 否。連れて来られていた。
 皆で焚き火を囲み水が振舞われるとき、開戦の合図として銅鑼が鳴らされ旗が振られるとき、彼女はどこかにいて、そして歌を歌っていた。
 齢、十五、六。遠目から見ても痩せっぽっちの身体のどこから、あの声量がでるのだろうとセイは密かに感心していた。少女はいつも喉を震わせ、誰か――何かに、語りかけるようにして謳っていた。その折、空を覆う重鈍な雲は割れ、月は顔を出し、獣は眠り、花は開き、人々は涙した。
 だが、彼女がその時以外に声を出しているところを、セイは見たことがなかった。何故だろうと思っていた矢先のことだった。偶然だった。セイは歌姫としての仕事を終え、力なく横になっている少女を見つけた。野営のための仮設の中にすら入ることができぬらしい立場の彼女は、砂吹き荒れる岩場の影で、そっと細い身体を横たえていた。漆黒の髪は短剣で無理やり切り取られたのだろう。奇妙なざんぎり形で短くなっている。肌は浅黒く、瞳は金。がりがりの手足を投げ出して、力なく横たわっていた。
 セイは驚いた。セイはいつも歌姫を、遠い場所から垣間見ることしか出来なかった。飾り立てられた少女は、常に大将らが鎮座する席の横で歌っていた。一小隊を預かる隊長の身分を与えられているとはいえ、将校ですらないセイは、少女の歌い場に立つことは愚か、近づくことすらできなかったのだ。
だが、歌を耳にすることは難しくはなかった。
 彼女が歌うその間は、何者も言葉を漏らすことはない。
 犯しがたい神聖な詫言を耳にするときのように。
 世界全ては沈黙し、彼女の歌に耳を傾ける。
 少女の声は何音も押しのけて空気を震わせ、たとえ隊の端にいようと、その美しい歌を耳にすることは容易だった。
 だから、驚いた。
 こんなに痩せて。
 こんなに小さく。
 こんなに。
 まるで、今にも萎れてしまいそうな花のようだった。喉を押さえて、少女は空気の抜ける音をさせながら呼吸をしていた。喉が、痛いのだ。直感だった。しかし、セイには判った。
 喉が、痛いのだ。
 きちんと食べているのだろうか。将校たちの席に侍らされる少女の痩せ方は、故郷の街角でかつて見かけた、春を鬻(ひさ)ぐ少女らのそれと全く変わらなかった。少女らしい曲線だけが、辛うじて残っている、まだ幼い、未熟な少女の身体。面差しもあどけなかった。けれど瞳だけは真っ直ぐで、セイを貫くかのようだった。


 セイは、蜜をやった。
 少女に蜜をやった。露商で買い求めた、小瓶にはいった蜂蜜は、セイが戦場で死にゆく部下たちに与える最後の贈り物だった。敵国は強大だった。十数年前に出来たばかりという新興国は、あの機械の王国すら併合してみせた。統率の取れたあの軍と比較すれば、自分たちの軍は赤子のお遊びのように陳腐だった。少女の歌が僅かに軍の士気を保っていた。死なせたくはなくとも、部下達は次々と命を落とす。あとは、頼みます。そういって。
 彼の小隊は、彼を残してもう存在しなかった。
 セイは蜜をやった。指で蜜を小瓶からすくいとり、持っていた杯の水の中に落とした。よく溶いて、少女の唇にあてがった。こくんと喉を鳴らし、少女はそれを飲んだ。


 少女は声を発することはなかった。
 しかし、付いてくるようになった。ぱたぱたぱたと、細い手足を精一杯動かして、彼女はセイの背後を付いて回った。歌う代わりに少女は笑った。セイの衣服の裾を引き、少女はあどけなく笑っていた。


 セイは喪うということに飽いていた。手に入れれば、失うだろう。セイは少女の奇怪ともとれる行動を拒み続けた。けれど少女は変わらずに、セイの傍らで笑い続けた。
 セイは少女に蜜をやった。焚き火を囲む片隅で。将校らに引きずられていった少女が、歌い終わったあとに。
 セイは少女に蜜をやった。瓶ごとやると、少女は首を横に振った。一回一回、セイが与えることに意味があるらしかった。セイは精一杯少女の笑顔を拒み続けたが、無駄だった。いつの間にか、蜂蜜が少女の喉を潤したのと同じように、少女の笑顔はセイの渇いた心を潤していった。


 蜂蜜の小瓶は、中身を徐々に減らしていく。
 大隊は、敗走を続けていた。


 瓶の中に水を注ぐ。煙燻る焚き火にかざすと、玻璃は炎を映して黄金に輝く。
 琥珀の煌きは水に混じって、ゆらゆらと光を屈折した。
 セイは少女を待っていた。最後の蜜をやるために。少女は将校たちに腕を引かれてどこかに消えていった。また、歌が始まるのだろう。それが終われば、蜜をやる。最後の蜜を。
 だが、歌は何時まで待てども始まることはなかった。
 日が暮れた。月が昇った。少女の歌は始まらない。焚き火は煙だけを燻らせていた。渇いた砂礫舞う大地には、負傷兵の呻きが風に混じり響いていた。死への恐怖が織り成す旋律は、少女が歌う歌とは程遠く、聞くもの全ての気力をそぎ落としていく。
 セイは探した。歌を聴きたかった。笑顔を見たかった。少女はセイに物言うことはない。が、歌を通して語りかけていることは明白だった。自分だけが独占しているあの笑顔は、言葉なくとも、音律なくとも、セイを奮い立たせるセイのためだけの少女の戦歌だった。


 セイは哨戒兵の目を盗み、天幕のなかを順々に覗き見た。少女を探すためだった。何時見つかるかと、背につめたいものが流れ落ちていく感触を覚えながら。それでも指を厚い布の狭間に差し入れて、セイは天幕を覗き見続けた。
 最も豪奢な天幕の中に。
 果たして、少女はいた。目を血走らせた男に組み敷かれて、虚ろな黄金の双眸を虚空へと投げ遣っていた。
 少女の裸体は美しく、けれど悲しいほどにやせっぽっちで。布が敷かれた褥の上で、少女は声も上げずに身体を撓らす。投げ出された腕と脚。セイは口元を押さえて涙した。
どれほど呆然と立ちすくんでいたのだろう。いつの間にかセイを認めた哨戒兵が、その腕を掴んでいた。
 小瓶が落ちて、澄んだ音と共に割れた。
 天幕の中、虚ろだった少女の瞳がセイを捉えた。将校らしき男が立ち上がる。少女は震えていた。悲鳴は上げなかった。ただ、あれほど笑顔に彩られていた顔が絶望に縁取られ、強張っていた。
 腕を強く引かれる。哨戒兵が耳元で何か怒鳴り声を上げている。しかしセイの耳には入らなかった。身の振り構わず駆けて来る、少女の姿だけを捉えていた。
 男が、少女の華奢な肩を掴んで引き戻す。
 少女は抵抗した。手当たりしだいに物を投げ、手足を暴れさせてセイの元に駆けてこようとした。少女が手近の燭台を振り回し、それが将校の額を掠めたとき、将校の顔が憤怒に染まった。
 さらりと、鞘から引き抜かれる白金。
 空気を切る音と、肉と骨を切り裂く音が、セイの耳に届く。
 赫い飛沫を身に纏い、少女がその場に崩れ落ちた。
 少女は、悲鳴をあげなかった。
 セイは咆哮した。
 素早く剣を引き抜いて、哨戒兵を切り捨てた。その勢いのまま天幕に飛び込み、少女を斬った将校を殺した。震える手で少女を抱き起こす。少女の小さな身体からは、命が抜けていくのが見えた。セイはその、鶏がらのようにあまりに軽い身体を抱いて、そのまま野営地を抜けた。
 笛が鳴らされ、追っ手が掛かる。セイが殺した将校は、この大隊の隊長だったと、気がついたのは全てが終わった後のことだ。
 砂が舞った。蜂蜜はもうない。少女にやれるものなど、もう何もない。少女はごぼりと喉を鳴らして血を吐いた。冷えた身体を温めようにも、何もなかった。
 何も。
 砂と風をやり過ごすために、岩と岩の狭間の洞穴に身を押し込んで、セイは少女の身体を抱きしめた。そして、その背を無心に擦り続けた。布を裂いて巻きつけたけれども、少女の傷は塞がるはずもなく、やがて少女の身体は死への道を緩やかに歩み始める。
 セイは小さく歌を歌った。
 無骨な戦人が歌える歌など、幼少の頃の童歌が限界だった。それでもその稚拙な歌は、少女にとっての戦歌となりえたのだろうか。少女はどうにか持ち直そうとしていた。傷は酷い。それでも生きようとしていた。


 そうだよその歌は、私にとっての戦歌だった。

 後に少女は笑って、歌に乗せてそう言った。相変わらず言葉を普通に発することはなかった。だが歌に乗せて、少女は思いを周囲に、セイに届け続ける。
 あの時セイが歌った歌は、少女を戦え生きろと励ましたという。貴方もあんなふうに私の歌を聴いていた?少女の問いに、セイはそうだと答えてやった。
 少女はやせっぽちの少女ではなくなっていた。相変わらずの線の細さはあれども、洗濯籠を抱えた彼女は、健康な身体を清潔な衣服で包んでいた。あの哀しい細さは失われて久しい。ただ背中と腹部を貫通した剣の傷が、生々しく残ってはいた。
 しかし、それだけだった。
 健康になった彼女はかつてと同じように忙しく手足を動かしている。ただ、セイのあとを付いてまわる代わりに、今は家事と歌に勤しんでいた。籠を裏の勝手口に置き、台所の鍋をかき回し始めたかつての哀しい歌姫の姿を、セイは目を細めて見つめ、再び過去に思いを馳せた。


 歌を歌いながら、セイは遠くで笛の音を聞いた。
 セイは誰かが近くにいることを知った。笛の音は自軍のものではなかったからだ。逃げるべき相手。敵国の笛だった。少女の身体を抱きしめて、セイは土を踏み分け近づいてくる軍靴の音を聴いていた。
 現れた兵士に、セイは助けを請うた。どうか、せめて少女だけでも。少女の手当てをしてくれるというのなら、セイは命を差し出す覚悟だった。
 倒すべき敵、部下たちの命を奪ってきた軍は、傷ついたセイと少女に優しかった。彼らは軍医を手配し、その軍医らは少女の手当てに力の限りを尽くした。武器こそ全て取り上げられたものの、清潔な衣服と食事がセイと少女に与えられた。監視は付いていたが、寝床も与えられた。
 最後に、セイは自分の国の軍が滅びたことを知った。自分を捕虜として軟禁している軍が攻めたのではなく、大将を失った軍は暴動を起こして自滅し、解散したのだ。セイを軟禁している軍は、セイと少女を連れて、砂礫舞う荒野から、濃い緑に覆われた国へと帰還した。


 日々は慌しく過ぎていった。
 軍を率いていた将軍が、セイと少女を国民として登録した。セイよりも年下の将軍は、屈託のない笑顔をセイに向けて、自分も元は敵国の人間だったのだと告白した。望めば、お前もこの国の人間に。セイは頷いた。少女の手当ての代償を、セイは払わなければならなかった。二人分の生活を、支えていかなければならなかった。セイは学び、働いた。がむしゃらに働いた。狭い長屋に肩をよせあって。長屋には近隣の子供たちの笑顔があふれ、住民たちが陽気に挨拶を交わしていた。
 少女は歌い続けた。少女から大人への階段を上る間も、変わらぬ美しいその声で、詩を紡ぎ続けた。
 戦場は血飛沫飛び交う荒野から、笑い声響く退屈されど平穏な毎日へと移行する。
 今日も彼女はのびやかに歌う。日々を精一杯生き抜けと、笑顔を添えて彼女は歌う。

 世界で一番優しい戦歌を。


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