びゃっ
色鮮やかな赤が蝋燭の灯りも届かぬ闇の中に踊る。暗がりでも青白いとわかる肥え太った男は、恐怖に目を見開いたままあっさりと事切れた。仕立ての良い衣服が血を吸ってどす黒く染まっていく。
パシリスコスは、嘲るように言葉を吐き捨てた。
「酒に酔っていたのか。何にせよ、この都市で一人歩きは自殺行為だとわからんのか」
その男は、今日の食糧だった。
咥え持ち上げればぶらりと肉付きのよい腕が垂れ下がる。地に着いたままの足がずず、と音を立てた。うっとおしい。適度に引きちぎって小分けにするべきか。
考えあぐね、鼻を鳴らした、そのときだった。
じゃり……
小石のこすれる音が、響いた。
静寂の中で、その音はひときわ大きく反響する。蝋燭の灯が差し込み、闇が橙色によって退けられた。
パシリスコスは面を上げ、光りの中に、その足音の主を認めた。
女であった。
娼婦か何かであろう。薄手の赤い衣に薄紫のショールを羽織り、右手でその前を掻き合わせて佇んでいる。頭の高いところで纏め結われた黒髪は艶やかだ。形よい唇には紅が注してあり、瞳はぬばたまの漆黒だった。膚は、浅黒い。この都市で一番人口の少ない中東アジアの血を引いているようである。整った顔の彫りは深く、けれどもどこか幼く。エキゾティックという形容詞がしっくりとくる、そんな女だった。
裸足のまま、女は、その場に立っている。
パシリスコスは食糧を口から離して、反射的に女に飛び掛っていた。女は微動だにせず、パシリスコスのなすがままに背中から倒れこんだが、それは身体が竦んだからとは少し違うように見えた。
押し倒したまま、首元に食らい付こうとしたその瞬間。
女が冷ややかに笑った。
「今日の分は狩ったんじゃないの? 今アタシを殺しても、腐るだけよ?」
歯が、膚に食い込む寸前。
パシリスコスは面を上げて女の瞳を思わず覗き込んだ。
女は目を細め、笑みに口端を持ち上げていた。その笑みは冷ややかでありながら、いっそ艶やかで。
自分の言葉がわからないと知りつつも、問いがついてでる。
「何故恐れぬ? 何故動かぬ?」
動けないのではない。女は、動かないのだと、パシリスコスはそう判断した。女は、沈黙している。問いかけに答えられるはずがないのだ。パシリスコスはそうと判らぬように嘆息した。タダヒトには、自分の声は聞こえるはずがない。
が。
「アナタみたいな綺麗な獣に食べられるって、ものすごく光栄でない?」
「……は?」
女は微笑んで、聞こえぬはずのパシリスコスの問いかけに、応じていた。
その獣の名はパシリスコスといった。
その女の名はダリアといった。
その出逢いは、暗い穴倉の中でいきる彼らに与えられた。
小さな、奇跡だった。
DAHLIA
「ら、い、は」
その声を聞いて、パシリスコスはげんなりとした。声の主が誰なのか、誰何の声をあげるまでもない。顔を見ずとも判る。
ダリア。
二番街の娼館通り、ポセインチアロードにある娼館の一つ、レッドへヴンで看板娘を張る女だ。女はそう素性を名乗り、パシリスコスはそうかとそれ以上追求することもなかった。第一に、興味がなかった。第二に、再び会おうなどとも微塵も思っていなかった。客の忘れ物を届けに来て、パシリスコスの“狩り”に鉢合わせした女を、逃がしたのは、気まぐれに過ぎない。
だというのに、女は懲りずにやってくる。わざわざ、パシリスコスの寝床まで探し当てて。
「今日も来たのか」
「今日も来たよー。だって暇なんだもの。ねぇ雷覇、今日は何して遊ぼっか」
「ふざけているのかお前は」
「ふざけてませんよ真剣ですよ?」
「それから雷覇と呼ぶのをやめろ。それは私の名前ではない」
「だって長くて呼びにくいんだもん。パシリスコスって」
ダリアは寝床に身を横たえるパシリスコスに、背をもたせ掛けながらダリアは笑う。私はお前のソファーではない。そう主張するが、ダリアはだって気持ちいいのだものとあっけらかんとしたものだった。
「食べられたいのか」
くわ、と牙を剥いてみるも、ダリアは笑うだけだった。
「お好きなように」
そうして彼女はパシリスコスの背の毛をうっとりと撫でて、頬を寄せたあと、いつのまにか彼女が持ち込んでいたブランケットに包まった。そしてこれもまたいつの間にか持ち込んでいた古い書物を開いて読み始める。
彼女は、常にこのような具合なのである。
パシリスコスを怖がる様子もない。
このような存在は初めてだった。人というカテゴリーから逸脱しても、女のような存在はかつて見たことがない。自分の声が聞こえるというその点を、除いたとしても、女の反応はとても稀有なものだ。
何度目か判らないため息とともに、パシリスコスは女に問う。
「私が何者か、本当にわかっているのか……?」
「獣でしょ?」
女はあっけらかんと、書籍から視線を動かさずに回答を口にした。
「能力者と同じように、個体数は極めて少ないけれども、人の言葉を理解する人間以上に賢くて、狡猾に狩りを行う動物。姿かたちは様々だけれども、好物は人の肉?」
「別に人間が好物なわけではない。人間しか獲物がいないだけだ」
そして獣という存在は、この都市では恐れの対象として扱われる。
獣の外見は様々であるが、パシリスコスは虎と呼ばれる型を取っていた。糖蜜をそのまま紡いで糸にしたかのような煌々しい体毛と、琥珀色の叡智を宿した瞳。しなやかな巨躯は成人の人を軽々と乗せられるほどで、存在だけで周囲を威圧する。血狐狸の類でさえ、彼の臭いの付いた場所には近づかない。
獣は、総じて人語を理解する。時としてその叡智はなにものも凌ぐ。そして、頻繁にトラップをしかけて合理的に人間を食用に狩る。
そういった理由からも、この荒れ者の多い浮浪都市でさえ、パシリスコスは恐れの対象、否、象徴として見られている。
が。
(神経がいかれているのかこの女)
パシリスコスは本を眉間に皺を寄せて読みふけっている女に一瞥をくれた。彼女がおくれ髪を耳にかける都度、しゃらりと腕輪が鳴る。細い手首に何重にも巻きつけられた金属の輪は、この都市で一番安価で、娼婦の女たちがよく身につけるものだった。パシリスコスは再び嘆息した。その、鼻から空気を抜く仕草を、嘆息と呼ぶのなら。
あざとく、その腕輪の影に隠された傷を見てしまったためだ。
(死にたがりか)
女の骨ばった手首には、細い筋状の傷が多くみられた。珍しい光景ではない。夜も昼もない、地下に設営されたこの浮浪都市。子供は歩くことよりも先にナイフの使い方を覚え、言葉よりも先に人の殺しかたを覚える。
時折、それに嫌悪を覚え拒絶するものが現れる。大抵総じてそういうものは死んでいくものだが、逆に生かされるものもいる。
おそらく、この女には金一山の価値があるのだ。
女は美しかった。獣である自分の目から見ても。パシリスコスは思う。まず、形が美しい。そして、色が美しい。獣は総じて感覚は人間に近い。愚鈍な“上”の男たちがこぞってこの女を買い求めたく思う気持ちを、わからぬでもなかった。
“上”の人間に気に入られた女は、殺されるはずがない。たとえ、女が死にたいと訴えても、強欲なものたちは金の卵を手放したりはしないだろう。
弱者は強者に生物としての尊厳を抹殺される。
それがここ、浮浪都市。
「何を、読んでいる?」
身体を少しずらして、パシリスコスは前足に伏せた顔をダリアのほうへと向けた。話しかけたこと自体に意味はない。
話しかけられたダリアは、少し意外そうに面を上げ、小さく笑って首をかしげた。
「さぁ」
「……お前、熱心に読んでいるものもわからないのか」
呆れの眼差しを向けたパシリスコスに、彼女はあっけらかんという。
「私、文字、読めないもの」
パシリスコスは僅かに瞠目した。文字が読めぬことは別段珍しいことでもなかったが、だというのなら女が懸命に見ていたものは何だというのだろう。ダリアは笑い、本の挿絵を指さした。
「これをみてたのよ」
ダリアが示したのは、古びた絵だ。空、というものだと、理解は出来た。広がる青を、知識としてならパシリスコスも知っていた。
「この本にはねぇ。一杯外の景色が載ってるの。もう大分ぼろぼろになったんだけど」
「お前、外にでたいのか」
「いけない? 多分、誰もが思ってることよ。諦めているだけで」
ダリアは絵を指先でいとおしげに撫で、目を細めた。そうすることで、厚い、灰色の天井の向こうに広がっているのかもしれない緑が見えるとでもいうように。
「こんな狭くて暗い場所じゃなくて。広いところに出たら、声だって聞こえなくなるでしょう? 自分の道を、自分で選べるのよ。だって、広いもの。逃げ隠れするところだって、沢山あるもの」
「……“声”?」
「ここは落ち着くの」
ダリアはそういって、大きく伸びをする。そして彼女は手を伸ばし、パシリスコスの首元を撫でた。ゆっくりと触れてくる彼女の手の温度は、決して嫌いではない。彼女は笑うが、その笑みはどこか儚げであった。だがもともとパシリスコスは、この女は美しく笑えるのだ、という点に酷く感銘を覚えたのだ。この街の人間は、笑う単語の意味を知らない。
ただ、女は泣くという単語は知らないのだろうと思った。歪んだ笑みは、泣き出す寸前のそれに似ていた。
「静かなものよ。アナタの声だけね。聞こえるのは。街は五月蝿いわ。奪うことと殺すことと犯すことしか、頭にないのよ」
「人の声も聞こえるのだな」
「そうね」
パシリスコスは追求することはしなかった。獣も能力者も同じく奇異な存在だ。生まれるはずのない、生まれた存在。人間たちの業の権化といってもいい。ただ、他者の声がひっきりなしに耳に入るのは拷問であろう。それでなくとも、この街の人間は強欲だ。
パシリスコスはダリアを一瞥した。彼女は再び、本の中の絵に見入っている。彼女の容貌を観察しながら、生まれて二十年そこそこか、と推測をした。
生まれながらにしてその声を聞きながら、この年まで生きてきて、そしてよくもここまで自分を保てているものだ。馬鹿にしているのではない。感銘を受けているのだ。狂気に満ちたこの街で。狂気が狂ったという意味を失うほど普遍になったこの街で。彼女は狂気を宿さなかった。
否、おそらく、振り切れてしまったのだ。闇などどこにでもある。それを拒絶することも受け入れることもなく、彼女はただ、闇を隣においた。
それに、パシリスコスは感銘を受けた。
「外に出て、どうする?」
問うたところでそれが叶うことはないと、パシリスコスは知っている。まるでこの都市の天井を支えるかのように、真っ直ぐに伸びた鉄骨の円柱。その中にある螺旋階段。さらにその向こうには、厚い鉄の扉。青と緑が広がるという、大地はその幾重もの扉の向こう。
自分たち穴倉の生物は、その光満ち溢れた世界を夢見ながら、決して触れることなく死んでいく。そういう、定めだ。
「そうねぇ」
ダリアは顎に指を添えて、黙考した。
「走りたいわ。思いっきり」
「そういうことを、聞いているのではない。どうやって、生計を立てるのだと聞いている」
「踊るわ」
ダリアは本を閉じると、ショールを掻き合わせながら立ち上がった。彼女の薄い衣服の裾が、ふわりと揺れた。
「歌も踊りも嫌いじゃない。娼館は、嫌いじゃないのよ。沢山、外の話だって聞けるわ」
「上にでても同じように身体を売っていくつもりか?」
「やぁね。誰がそれを好きっていったの。私が好きなのは、踊ること。よく前座でやらされるの。ちょっとしたものだと、自分でも思うわ」
みて、と女はいい、確かにその舞踏は軽やかだった。見るものの目を引き寄せる舞だ。指の先、髪の流れ。足は複雑なステップをこなし、彼女が身を翻すたびに安物の腕輪がまるで本物の金のように輝き、足に付けられた鈴がさらりと鳴った。
パシリスコスは、獣である。人の感覚に近くとも、見える世界はまた違う。
それでも、女がその舞いによって紡ぐ世界は美しかった。この、血なまぐさい灰色の世界で、いっそ清らかといってよいほどに。
「毎日町で踊ってね」
ダリアは言う。とん、と踏鞴をふみ、手の甲を返しながら。
「家は人里から離れたところに作るのよ」
翻る薄いショールは取り付けられたビーズの音を鳴らしながら、彼女が持ち込んだランタンの灯りに透けてその色を萌えたたせる。
「小さな暖炉とベッドが欲しいわ。裏手には畑があってほしい。餓えることが、ないように」
くるりと反転した彼女は、優雅に会釈する。踊り子が、演舞の前にするように。
面を上げて、彼女は笑った。
「雷覇の眠るスペースも欲しいね」
「オイ」
パシリスコスは目を細めて鼻を動かした。細い針金のようなひげが、オレンジ色を宿して視界の端で瞬いていた。
「何で私がお前と一緒にいくと決まっているんだ」
「雷覇は外には出たくないの?」
「だからそれは私の名前ではないといっているだろう!」
「でたくないの?」
「人の話を聞け!」
「人じゃないくせにー」
「あげあしをとるな!」
「ねぇ雷覇」
これ以上何を言っても無駄であろう。パシリスコスは楽しげに鼻先に屈みこむダリアを見上げた。
「気持ちいいと思わない? 外は、きっと広いわ。こんな風に窮屈な場所で背を丸める必要はなくて、アナタもまずい人間を狩らなくてすむのよ。もっとおいしいものが食べられるわ。綺麗な水だってあるでしょう」
パシリスコスはうっとりと目を細めるダリアを見た。彼女は、夢を見ている。彼女が見つめている世界は、もう、地上のどこにもないのに。
彼女が夢見る世界は、もう数世紀前の世界だ。人が壊した。もう、本の中でしか残っていない。
夢を壊すつもりはなかった。夢見ることができるということは、この女がまだ人である証であったから。夢を、未来を、描く。この都市において、稀有なことだ。
パシリスコスは目を閉じた。彼女が夢見た世界を知っている。知識として。けれども、ある種の経験として。獣はそういう教育を受けるのだ。
知っている。
草いきれ、風の音、太陽の熱、空、地平線。
この暗闇に、ずっといたいわけではない。ただ、諦めていた。そんなことは不可能であるから。夢見ることなど、獣には許されていないから。
「ダリア」
パシリスコスは半眼でダリアを見上げた。呆れも混じってはいたが、それでも彼女を卑下するつもりはなかった。
「文字ぐらいは読めるようになっておけ。本当に外に出たいというのならな」
結局、外もここも変わらないのだ。自分で考えないものは弱者になり、踏みにじられていく。ただ、ここは、自分で奪う力がなければいきてはいけない。上では、知恵が回らなければ生きていけない。
それだけの差だ。
「でも、せんせいがいないわ」
ダリアが床の上にある本を拾い上げている。
パシリスコスは染みすら見えぬ、闇に埋没した天井を仰いで、嘆息した。
「目の前に、いるだろう」
「……は?」
退屈に。
飽いて、いたのだ。