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ぬいぐるみ


 叶の部屋には、いつの頃からか、ぬいぐるみがある。
 ちょこんと机の一角を占有する、カピパラのぬいぐるみ。
 誘惑に負けてそれを手に取る。抱きしめる。もふっ、というぬいぐるみ特有の柔らかさと、タオル地の肌触りにうっとりとしかけ……。
「何やってんの?」
 唐突にがちゃりと扉が開いて現れた少年から、追求の声が上がった。
「……ぬいぐるみ?」
 ぬいぐるみを抱きしめたまま硬直しているみちるに、彼は首を傾げる。手に持っていた麦茶が載った盆を机の上に置いて、彼はみちるとぬいぐるみを見比べていた。
「気持ち良いよね、それ」
「……私前々から不思議だったんだけど」
 そっと元あった場所にぬいぐるみを戻しながら、みちるは呻いた。
「あんたの部屋に、なんでぬいぐるみあるの?」
「え? あっちゃだめなの?」
「だめっていうわけじゃないけど……」
 一般男子高校生の部屋に、このようにかわいらしいぬいぐるみは置かれているものなのだろうか。叶の部屋以外上がりこんだことがないから、よくわからない。しかし彼の兄たちの部屋なら見たことがある。長兄、隻の部屋はベージュや茶といった落ち着いた色で統一され、宝石店勤務という肩書きに納得できる、クラシックなセンスで纏められている。一方次兄、音羽の部屋はモノトーンで、時々アクセントにワインレッドが使われている。アジアンテイストの垣間見える部屋だ。
 叶の部屋は、そういった統一感というものがない。ただ、非常にカラフルだった。使う色はどうも気分や季節によって変えるらしく、最近は水色や青がカーテンをはじめ、リネン類によく使われている。それが黄色だったり、時に桃色だったりする。そのかわいらしい色が非常に叶にまた似合っているものだから、呆れてよいのか、それとも男の癖にと揶揄するべきか、はたまた単純に似合っていると賛辞を送るべきなのか。
 そして極めつけが、かわいらしいぬいぐるみである。
 時々、叶の趣味がわからない。
 みちるの様子を怪訝に思ったのか叶は首を傾げ、突然その場にしゃがみ込んだ。その行動の意図が読めずみちるが眉をひそめている間に、彼はベッドの下から箱を引き出す。
 ボール紙で作られた大きめの箱。彼が蓋を開けたその中には、小さなぬいぐるみがみっちりと詰まっていた。
 みちるは思わず呻く。
「……あんたにぬいぐるみ集める趣味があったとは知らなかったわ……」
「あのさぁ、僕が本気で集めてると思うの? もらい物だよ。もらい物」
 手近なぬいぐるみを一つ拾い上げた彼は、それをみちるへと放り投げてくる。慌ててそれを空中でキャッチした。刹那、手に伝わってくる柔らかく、滑らかな感触。
「――……っ!!!」
(き、きもちいい……)
 もふり、と、手にあわせてぬいぐるみは形を変える。押せば柔らかく押し返してくる。その感触が、たまらない。
 手にぬいぐるみを握ったまま、どことなく幸せな気分を味わっていたみちるは、ふと頭上に指した影にはっと我に返った。
 視線を動かす。すぐ傍に、叶が立っている。
「くくく」
 おかしそうに、喉を鳴らす叶に、みちるは顔の火照りを感じた。
「わ、わらわなくてもいいじゃない……」
「みちる、もしかしてぬいぐるみとか好きなの?」
「き、きらいじゃない……」
「でも、部屋には置いてないよね。そういうの」
「だって、スペースがないんだもの」
 みちるが暮らすパン屋の住居スペースには、店長の個室とダイニングキッチン、そして洗面所のスペースを除けば、部屋が一つしかない。もともとが狭いつくりをしているその部屋に、みちると店員の今田が二人で住んでいる。
 無論、私物を置く空間などない。学習机と二段ベッドの一段目部分だけが、みちるの空間だった。衣服やこまごまとしたものを除けば、参考書の類がその空間のほとんどを占めている。
「まぁ、確かに普通のぬいぐるみは困るか。ちっさくても置き場に困るの、ぬいぐるみだもんね。だから僕もこんな風に箱に放り込んでるわけだけど」
 叶はみちるの手からぬいぐるみを取り上げて、箱の中に放り込んだ。そして机の上に戻されていたぬいぐるみを手にとり、みちるの手元に押し付ける。
「え?」
「あげる」
「え。でも」
「気持ち良いでしょそれ。仮眠とったりするときの枕にしてるんだけど。多分ベッドの上においておけば、邪魔にならないんじゃない?」
「こ、これ、もらい物でしょ? 人様からのもらい物、人にあげるのはよくないよ」
 送り主は、十中八九、彼を好きな女の子からだ。叶へのプレゼントにぬいぐるみをチョイスするところに首を傾げたくなるが、それは彼の本性を知るみちるだからであって、少し子供っぽく笑顔を振りまいている叶しか見ていない少女たちにとっては、おかしくはないことなのかもしれない。事実、叶はぬいぐるみを含め、かわいらしいものを嫌いではないようだから。
 叶に気に入ってほしいと、自分の代わりに傍にいてほしいと、願いの込められたぬいぐるみ。
 それをみちるが引き取るわけにはいかない。
「それだけは僕が買ったんだよ」
だから大丈夫、と、彼が言う。
「いらない?」
「い、らなくない……」
 実に抱き心地のよいぬいぐるみをぎゅうぎゅう抱きしめて呻くみちるに、叶が笑い声をたてる。
「みちるってさ、僕の問いにいっつも反語で答える。素直じゃないなぁ。ふつーにほしいっていえばいいのに」
「だ、だって、いらない? って訊かれたらついそのままつられて、いらないっていいそうになるんだもの」
「え? つられてんの?」
「うん」
 ぬいぐるみを抱きしめて、唇を引き結ぶ。叶の表情は緩んでいる。実に楽しそうな顔に、みちるはますます頬を膨らませた。みちるの日常会話能力の低さに、どうせ、この男は心の中で笑っているに違いないのだ。
「でも好きっていう言葉にはつられないじゃん?」
「……いうの、抵抗があるの」
 好きって言ったら、離れていきそうで。
 小さい頃から、口に出すことがとても怖い言葉の一つだった。今も好き、という言葉は、喉元にすら上らない。
 ふん? と叶は小首を傾げる。その表情は、少し不満そうだった。
「私がもらっちゃって、大丈夫なの? コレ」
 話題を変える意味で、みちるはぬいぐるみを軽く掲げた。彼は大きく頷く。
「いいよ。最近、僕もそんなに使わないし。飾ってるだけの状態だったから、みちるが持ち帰ってかわいがってくれたらそいつも喜ぶよ」
「ほんとう?」
「うん」
「……ありがとう」
 再びぬいぐるみにもふっと鼻先をうずめ、みちるは笑いながら叶に礼を告げた。一方叶は嘆息し、ベッドの上に腰掛ける。何をため息ついているのだかと、怪訝に思っていたみちるの腰を、彼は唐突に抱き寄せた。
「う、わ!」
 ぬいぐるみを抱えたまま、みちるは叶の膝の間に、叶に背を向ける形で落ちる。急激な視界の変化に、頭がくらくらした。
「叶! いきなりなにすんの!?」
 振り返りざまにみちるが怒鳴ったところで、彼に悪びれた様子はない。彼はみちるの腰に腕を巻きつけたままだ。
 彼は、ふいにみちるからぬいぐるみを奪い取った。
「え? なに」
「いってみて」
「……なにを?」
「すきって」
「……え?」
 何に対してだ、と当惑したみちるに、叶は言葉を続けてくる。
「まずはぬいぐるみから。今日の課題はうん。そう。好きって、いえるようになるところからスタート」
「いやいやいや今日の課題って何よ?」
「大人になるためのレッスンそのいち?」
「いつからそんなレッスンやるようになったのよ!」
「今。思いつきで」
「思いつくな!」
「まーともかくさぁ、そういや、確かにみちるの言うとおり、みちるの口から何々が好きっていうの、あんまり聞いたことないなぁって、思って」
 掴んでいるぬいぐるみを、ぷらぷらと揺らしながら、叶は言う。揺れていた柔らかい物体を眺めていた彼は、ふ、と口元を緩めてこちらに向き直った。
「聞かせて」
 彼は言う。
「はい、ぬいぐるみは? 好き? 嫌い?」
「え、え」
「答えて」
「き、きらいじゃな」
「だから、ちゃんと言いなって」
 ぬいぐるみをベッドの片隅にいつの間にか放り投げていた叶の手で、両方の口角を思いっきり押さえられる。ひよこ唇になりながら、みちるは呻いた。
「いひゃいいひゃいいひゃい!」
 叶の肩口を叩き、痛みを主張する。ようやく彼の手から唇が解放された後、みちるは涙目で叶に叫んだ。
「ひどい!」
「ほら、もっとひどいことされたくなかったら、ちゃんと答える」
 空いている手を目の前でひらひら振られる。力では叶には敵わない。体は彼の腕と膝でしっかりと固定されていて、逃げようがない。
「ぬいぐるみは?」
「す、すき」
 何をそんなに真剣になっているのだか。叶の顔は至極真面目だ。妙な緊張感を覚え、みちるはこくりと喉を鳴らした。
「あまいもの」
「す、き?」
「かわいいもの」
「すき……」
「ワンピース」
「すき」
「マニキュア」
「すき」
「山」
「やま? うーん……たいして好きじゃない」
「じゃぁ海」
「すき」
「アクセサリー」
「きらきらしすぎてないもの限定。すき」
「ゴールドよりもシルバー派?」
「ピンクゴールドがすき……」
「あ、そうなんだ? 確かに似合いそうだけどね。えーっと後は……」
「……こ、この問答、なんか意味あるの?」
「え? うん。あるよ」
「ど、どんな?」
 意味はあるという。しかしその意味を、叶は答えようとしない。にっこりと天使のごとき笑みを浮かべ、沈黙している。
 みちるは、ため息をついた。
 何故ぬいぐるみからこんな珍問答に発展しているのだろう。答えていくことはかまわないが、苦手な言葉を連呼する行為は、自分に苦痛を与える。
「疲れてるね?」
「誰のせいよ誰の」
「んーじゃぁ、最後の質問行ってみる?」
「はいはい。で、最後は何を好きっていえばいいの?」
「僕」
 自分を指差してにっこり笑う少年に、みちるは絶句した。
 じりじりと、体の表面を。赤が侵食していく。
 逆上せるような熱を感じ取りながら、みちるは恨めしげに低い声音で尋ねた。
「……あんた最初っから、それ、ききたかったんじゃないの?」
「みちるは僕のことを好きだっていわないじゃん」
 小さく苦笑を浮かべて彼は言う。
「嫌いは腐るほど聞いたけどね。イヤじゃないもきいた。嫌いじゃない、も。けれど、好きとは言われてないなって、思った」
 そうだっただろうか。
 言ったこと、なかっただろうか。
 好きだって?
 そういわれてみると、確かに言ったことがない気がした。
 気恥ずかしくて。
 無言で俯く。上目遣いで叶の様子を窺う。彼は、少し傷ついた顔をしていた。
「かなえ」
「なに?」
 問い返してくる彼の声音は、不機嫌そうだ。
 みちるは彼の人差し指を握って、体中から勇気をかき集めて言った。
「あのね……ちゃ、ちゃんと、す、すきだからね……?」
 だから、そんな傷ついた顔をしないで欲しい。
 微笑んだ叶はみちるを抱き寄せ、髪に口付けを落とす。
「もっと何が好きなのか、教えてよ。もっと言っていいんだ。アレが好き、コレが好きってさ」
「うん……」
「みちるが好きなもの、あげたりしたりしたいしさー」
「うん」
「自己主張ははっきりしたほうがいいよ」
 じゃないと意地悪するよ、と言われ、みちるは叶の胸をどん、と叩いた。不意を衝かれたらしい彼は、みちるを手放しけほけほと咳き込む。
「ひっでぇー」
「愛情表現」
「うそつくな」
「本当」
 腰を折って恨めしげに見上げてくる少年を、みちるは抱きしめた。ぬいぐるみにそうするよりも、強く。
 大好き、と耳元で囁くと、叶は照れくさそうに、やっぱ恥ずかしいね、と笑った。


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