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快楽する色彩


 姉の買い物に付き合わされるたびに閉口する。姉の買い物量たるや、半端がないからだ。あれは姉なりの一種のストレス解消なのだとは思うけれど、荷物持ちになるこちらの身にもなってほしい。
 たまに帰ってきたと思えばこれである。
 紙袋を抱えたまま、姉の後に従ってバラエティーショップに足を踏み入れる。化粧品などが並ぶコーナーに置かれた鏡に映った自分の顔は、かなりげんなりとしていた。
 疲れた目に、色彩が痛い。
 目に留まったのは、色鮮やかなマニキュアの小瓶の並ぶ棚だった。
 赤青黄色。ぱきっとした原色のものもあれば、パールの効いた淡い色もある。仕事先であるホストクラブにやってくる女性は皆、爪を美しく飾り立てているが、その材料となるものをこうやってしげしげ眺めたのは初めてだ。
「なにあんた、マニキュアに興味があるの?」
 後に付いてこないこちらを怪訝に思ったのだろう。ひょい、と顔を覗かせてきたのは姉だった。
 唐突に声をかけられて、つまんでいた小瓶を取り落としそうになる。
 慌ててそれを宙で受け止めて、首を横に振った。
「いや、興味はないんだけど」
「よね。……あらでも綺麗な色のネイルラッカーねぇそれ」
「派手な緑だけど……」
「メロンカラーといいなさいよ」
 デリカシーのない表現ね、と、姉は肩をすくめた。
「ペディキュアとして使うと、綺麗なのよ」
「ペディキュア……っていうことは、足の爪?」
「そうね。手に塗るんだったら、デコレーションとして一部分に使う分にはいいけど、ベースカラーとしてはさすがにきついわ。でも足なら、サンダル履いてるときに綺麗に映えるの」
「ふぅん」
 確かに、姉の言うとおり綺麗な色だった。メロンシャーベットを思わせる明るいカラー。
 なんか、似合いそうだなぁと、思った。
「あら、どうしたの?」
 姉に紙袋を押し付けて、その場から離れるこちらに、彼女は声をかけてくる。
 ぶっきらぼうに、一言、答えた。
「買ってくる」


 そんなわけで。
「私の足?」
「うん。塗らせて」
「なんで?」
「楽しそうだから」
 仕事が休みの土曜日は月に一度。店長が研修に出かけているときだ。私は勉強道具を抱えて、叶の家に遊びにきていた。奈々子もいたのだけれど、急用ができたとかで、つい先ほど慌てて帰っていったばかり。
 入梅したというけれど、雨は降らず、夏のような暑さがじりじりと身を焦がす日だった。何を思い立ったのか、急に席を立った叶は、綺麗な色の小瓶を持ち出してきた。
 色鮮やかな、メロンシャーベットを思わせる、淡いグリーンの小瓶。
 マニキュアの瓶だった。
 先日、帰省してきた棗ねーさんの買い物に付き合わされた際に買ったらしい。私の足の爪に、塗りたいのだという。
「そんな、突然いわれても」
 私、足はもう塗っている。この時期になって、サンダル履く機会が増えたから。
「落とすやつだったらあるよ」
 叶は言った。
「あと、なんだっけ、ベースコートとトップコート?」
「それも買ってきたの?」
「ううん。棗の部屋から拝借してきた。勝手に借りていいっていってたから」
 これでしょ、と差し出されたものは、確かにベースコートとトップコート。うわ、このメーカー、一本二千円以上するやつだ。塗りやすいって有名の。
 さすが、棗ねえさん……。
 叶は私の許可を待たず、突然私の傍らに陣取って、足に手を伸ばす。
「ちょ、ま!」
「え? だめなの?」
 少し前かがみになったまま私を見上げてくる叶に、私は口先を尖らせる。
「だめ、とかじゃなくて……。せめて、足拭かせて」
 今日もサンダル履いてきたから、土付いているだろうし。汚れているだろう足に、いきなり触って欲しくない。 それぐらい、気が付いてよ。
「塗る前って拭くもん?」
 そして気が付いてないし。
 嘆息しながら、叶の質問について考える。私、足に塗るとき、いっつもお風呂上りにしちゃうからなぁ。どうなんだろう。
「……専門のお店だったら、多分、ホットタオルとか用意するんだと思うんだけど」
「ふーん?」
 実際、ペディキュアを塗ってくれるお店があるのかどうかは知らない。ただ、手をしてくれるお店では、ハンドマッサージとか前もってしてくれることがあるって聞いた。
「ちょっと待ってて」
 叶は立ち上がり、そのまま廊下へと姿を消す。本当に、今から塗るつもりらしい。
 テーブルの上に広げられた叶の宿題を見つめ、飽きたのね、と、私は嘆息した。


 どうやったら塗り易いか話し合った後、居間から叶の部屋に移動した。まず、嵩のあるそば殻枕にバスタオルを巻きつけて、床に置く。その上に足を乗せるようにして、私はベッドの縁に腰掛けた。
 床の上にはお湯を張った洗面器とハンドタオル。小さなトレイの上に、コットン、リムーバー、爪楊枝、叶が持ってきたグリーンのマニキュアと、金のラメのマニキュア、トップコート、ベースコートが並んでいる。
 なんだか、至れり尽くせりな感じです。
 叶はひどく上機嫌で、温かいお湯にタオルを浸している。それを硬くしぼり、ぱん、と音を立てながら広げると、枕の上に置いた私の足を手にとった。
 お湯に浸してさえ、彼の手はひやりとしている。雪のようだと思う。
 そっと肌に触れて溶ける、雪のような温度。
 ぎこちない手つきで、叶は私の足を拭いていく。まずは左足。そしてもう一度タオルを絞りなおして、右足。指の間まで、丁寧に。
「ねー、叶」
「何?」
「くすぐったい」
 訴えながら、私は僅かに身をよじる。だがそれも意に介さぬというように、叶は笑った。
「まだ、始めたばっかだよ」
「ホントにするの?」
「うん」
 タオルを洗面器の中へ入れて、コットンとリムーバーを手に取る。
「どれぐらい含ませればいいの?」
「物にもよるけど……大体、五百円玉ぐらいの大きさに染みが広がるようにして。それで片足は綺麗に取れるはず」
「わかった。やってみる」
 薄水色に着色された液体を、コットンにこぼすような形で移す。リムーバーの瓶を置き、叶は私の足を手にとって、爪の先にコットンを押し当てた。
 綿の感触が、むずがゆい。
「みちるってさ」
「ん?」
「足、ちいさいよね」
「……そうかな」
「人形の足みたいだ」
 そこまで、小さくはないと思うんだけど。
 小さいよ、といって、彼は丁寧に爪一つ一つをコットンで拭っていく。最初塗っていたオレンジ色が綺麗に取れて、もともとの爪の色があらわになる。あぁ、このリムーバーもやっぱり良いものなんだろうな。白くならない。
「ねーかなえ。もうちょっと……さっさっさっと、できない?」
「初めてだから無理。なんで?」
「やっぱり……その……」
 なんかすごく、くすぐったいような、むずがゆいような、そういうのの、耐久テストでもやられているような。
 叶は凄く不思議そうな顔で私を見上げている。なんで、とものすごく顔に書かれてる。
「う。うん。いや、いいよ続けて……」
「ん」
 叶は汚れたコットンをゴミ箱に投げ入れ、まず、ベースコートを手に取った。拙い手つきで爪一つ一つに塗っていき、手を止める。
「ベース、乾くまで待つの?」
「速乾性だから、一番最初に塗った爪からもう色つけていっても大丈夫だと思うよ」
「そっか」
 私の言葉に頷いて、叶は作業再開。とうとう、あの綺麗なグリーンの出番。
「綺麗な色だよね。ライム……メロングリーンか」
 瓶の表示を思い出して私は言った。色名はメロン。確かに熟れたメロンを思わせる、明るい緑。
「うん。みちるに似合うと思ったんだ」
 だから買った、と短く言う。私は驚きに瞬いた。
「私に買ったの?」
「他になんの使い道があるわけ?」
 私の問いに、僅かに顔をしかめて叶は反論する。う。その顔、少し怒ってる。
「棗ねーさんに買わされたのかと」
「まさか。自分で買えっていうよそれぐらい」
「……ありがとう」
「どーいたしまして」
 叶はどうも、実に意外だけど、人に何かをしてあげたり、物をプレゼントすることが好きらしい。
 こういう風になってから特にだけれど、叶はちょくちょく、何かを買ってきてくれたりするのだ。
 今、叶はかなり真剣に、私の爪を塗ることに苦心している。
「あんまり、厚塗りしすぎると、こんどは乾いたときに跡つくよ」
 同じ爪を何回も塗りなおしているみたいなので、私はちょっと口を挟んだ。叶が怪訝そうに顔を上げる。
「跡?」
「うん。布の跡とか……私お風呂上りにいつも塗るんだけど、うっかり厚塗りすると、翌朝布団の跡とか付いてたりするの」
「へぇ……じゃぁ、これもそんなに濃く塗らないほうがいいのかな」
「一度全部の爪塗って、それからもう一度塗りなおしたりすると乾き早いし、色は濃くなるよ」
「ふーん。この金色のほうは?」
「最後に、爪の先っぽに塗ればいいと思う」
「ん。了解」
 どうやらペディキュアが楽しくなってきたらしく、叶はしげしげと私の爪先を角度を変えて眺めながら、メロンシャーベットの色に爪を塗り上げていく。はみ出たものは、爪楊枝で拭って。そういった工程を繰り返して、最後に綺麗に塗られた爪に、彼は注意深く金のラメを足していった。
 というか、そんなに見ないで欲しいんだけど。人の足を。
 一刷毛、一刷毛、丁寧に。
 一本一本の足の指に、叶の指先が触れていく。時に撫ぜるみたいな指先の感触が、本当、すごくむずがゆい。
 足を動かしたらいけないから、その反動で、何度も何度も、上半身をよじる。
 早く、終わって欲しい。
 なんだか、気が変になりそう。
 そう思って叶を見つめていると、ふと、目があった。彼の口元がにやりと吊りあがったのをみて、私はかっと熱くなる。
 このひと、確信犯。
 私がくすぐったがりで、苦しいの知ってて、わざと撫ぜるみたいにして足に触れている。
「で、最後にトップコート?」
「……そう」
 凄く冷静な叶の声が悔しくて、口先を尖らせながら私は答えた。叶は楽しくて仕方がないという風に、口角を吊り上げている。
 何で、そんなに楽しそうなのかしらこの人。
「できた!」
 トップコートの蓋を閉めて、叶は満足そうに微笑む。私は自分の足を覗き込んだ。
「……綺麗」
 本当に綺麗。初めて人に塗ったとは思えない。……初めてなのかな。
「人の爪にぬったの、初めてだよね」
「当然じゃん。じゃないと塗り方いちいち確認したりしないでしょ」
「……だよね」
 なのになんでこんなに綺麗にぬれてるんだ。なんだかむかついちゃうんですけど。
「みちる」
「ん?」
 使ったものをトレイごと押しやりながら叶が呼びかけてくる。首を傾げて応じると、彼はうれしそうに破顔した。
「やっぱりよく似合う」
 思ったとおりだ、と。
 無邪気な、子供のように。
 顔の綺麗な人は得だと思う。その笑顔一つで、文句も何も言えなくなる。
「……ありがと」
 愛想無く、それでもひとまず礼はいう。叶は笑顔で応じ、けれど、手を私の足から離さなかった。
「……かなえ?」
「綺麗に塗られた爪ってさぁ」
 叶は何気ない口調で話を切り出しながら、私の足を眺めている。足を引こうにも、足首をしっかりとその手で固定されていて、動けない。
「なんか、食べ物みたいだよね」
 俯いた彼の表情は見えない。
 けれどその声には、今までのそれと違って毒がある。
 人を、狂わせる、毒。
 叶の冷たい唇が、私の足の甲に触れる。
 その吐息と冷たさに、私は思わず顔をしかめて身をよじった。
 あぁ、さっきから、すごくくすぐったい。
 叶が面を上げる。身をよじって叶を睨む私を見て、彼は楽しげに目を細める。
 足はようやく彼の手から解放され、しかし今度は私の手が、彼のそれによって縫いとめられた。
「おなかすいた」
 脈絡のない彼の言葉に、私は嘆息する。
「布の跡、付くと思うよ」
「そうしたらまた塗りなおせばいい」
「叶が?」
「もちろん」
「……それって、私にくすぐったいのずっと我慢してろってことよね?」
「くすぐったそうに、しかめてる顔、かわいいよ」
「……サイッテー」
 私、くすぐったいの、苦手なの知ってるくせに。
 口先を尖らせる私と違って、叶は心底楽しそう。
「マニキュア、塗るの楽しかった」
「ペディキュアね。楽しかったならよろしゅうございました」
 私は訂正を入れながら低く呻いた。叶ばっかり楽しそうで面白くない。そんな私の表情を読み取ってか、叶は困ったような表情で目を伏せ続けた。
「次は赤く染めたいな」
「……染める? 塗るんじゃなくて?」
 マニキュア、ペディキュアは、「塗る」でしょう?
 私は問う。
 私の顎にその雪のように儚い温度の指先を添えながら、彼は笑って答えたのだ。
「染めるで、合ってるよ」
 そして私はすぐにその意味を知る。


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