独占の契約
「ほら、もういい加減泣きやみなよ」
叶の家の叶の部屋。泣きやむことのできないみちるの赤く腫れた目元を、自らの衣服の袖口で拭いながら叶がいう。
「そん、そんなこと、いったって……」
泣きやめないのだから、仕方がない。
大体泣きやめるのだったらもっと早く泣き止んでいる。結局街から叶の家までの道中、電車にのっている間でさえ、みちるはぼろぼろ泣いたままだったのだ。共にいる叶は好奇の目で見られ、さぞや恥ずかしい思いをしたことだろう。
どこからこんなに涙があふれ出てくるのか判らない。
もう、泣きすぎで頭が痛かった。
叶は堪忍したように嘆息して、ベッドの縁に座るみちるの傍らに腰掛ける。壊れ物を抱くようにみちるの身体を懐に招き入れて、みちるの髪に唇をうずめながら、呆れたように呟いた。
「よく泣くなぁ……」
「誰のせいよ!」
間髪いれずに突っ込むと、叶が低く呻いた。
「うん、ごめん。僕のせいだ」
「本当だよっ。やめてって、いったのに。痛かったし。本当に、痛かったし」
「……いや、うん。その、ホント、ごめん」
「痛かった。いたかったの!」
「うん。判ってる」
「わかってない!」
「わかってるって!」
判っていると繰り返し主張するが、その声は笑っている。本当に理解しているのかどうか、怪しいところだ。
痛かったというのは――無論、あの夜のことだ。生まれて初めて腹の中を抉られる痛みは、言葉では言い表せなかった。性急さと混乱で頭の中は白く焼けて、無論快楽などあったものではない。
その後、長い間こんな風に訴えることなどできなかったせいもあって、本当、叶が憎たらしくてしかたがなかった。
憎たらしくて仕方がないのに。
その腕の中は、世界中のどんな場所よりもみちるを安堵させた。
「……どうして、あんなこと、したのよ……」
ずっと、尋ねたかった。
どうして、突然、自分を欲しがったりなどしたのか。
自分たちの間に、性別はなかった。そう思っていたのに、いつの間にか彼は男で、自分は女だった。それを、明確に突きつけたのが、あの夜の出来事だった。
「みちるがほしかったから」
彼はあっさりと言い、そのあまりに率直な物言いにみちるは頬を赤らめながら、これ以上ない鋭い視線で彼を睨み付けた。
「この、ケダモノっ!」
「……否定はしないよ。僕もそうおもっちゃったもん」
心なしか、肩を落として彼は言う。
「だってさ、嫌だったんだって。誰にも触らせたくなくて、自分だけのものにしておきたくて。だけど……その方法が、よくわからなかった」
「……なに、それ」
「みちるが僕以外の男と話しているのが気に入らない。僕以外の男に笑いかけるのも、一緒に歩いているのも本気で気に入らない」
叶の声は拗ねていて、その声色は、お気に入りのぬいぐるみをとられることにむずがる子供のそれそのものだ。
けれど、耳元の空気を震わせる声音は、確かに、男のものだった。
「イライラしてたまらなかった。みちる、気づいてないでしょ。最近結構あちこちで、みちるがいいっていう野郎どもの声きくよ。それとなくアプローチしてるやつだっている」
「……それって、私がモテてるってこと?」
「うん」
叶が大きく頷き、みちるは思わず声を上げた。
「うっそだぁ! そんなわけないじゃないの!!」
「……このくそ鈍感なところがマジむかつく」
はーやってらんねーと呟いて、叶はぐったりと脱力した。みちるの身体に、少年の体重が課せられる。みちるは訴えた。
「おーもーいー!」
とはいえ、その重さは不快ではない。独りでは、感じることのない重みだった。
「大体、今日の芝崎だって」
みちるの肩口に額を押し付けたままの彼の呟きに、はっと我に返る。
そして蒼白になった。
「し、芝崎君! すっかり忘れてた! 置いてけぼりにしちゃったよね!?」
「あーうん。いいんじゃない?」
倦怠感のにじみ出る彼の呟きに、みちるは呆れかえる。思わずその肩を引っつかんで、激しく揺らした。
「よくないでしょ!!」
「いたっ! 痛いってみちる! 手ぇ放せよ!」
「わ、わたしなんか今考えたらすごく失礼なことした……?」
叶に手を振り払われるその前に、みちるは、彼の肩をぽいっと放り出した。彼に背を向けながら愕然となって呟く。
事情を知らぬ芝崎の目の前で泣きに泣き、そのまま挨拶もないまま叶と連れ立って帰ってきてしまった。
彼もまた、何かを言いかけていたのに。
「どど、どうしよう……」
「謝ればいいよ。別に謝んなくていいけど」
「だめでしょ! 謝らないと! っていうかあんたも彼女さん放置したまんまじゃないの!? 今思い出したけど!!」
「彼女? ……あー、あの子、別に彼女じゃないよ?」
「……!? 嘘!!」
首をひねりながらみちるの言葉に抗弁する叶に、みちるは叫ぶ。
「嘘じゃないって」
叶の声音は、確かに嘘をついているようには思えなかった。
「事情があってしばらく一緒にいたけどさぁ。会うのも今日で最後だったから、いいんだよ。どうせ帰ろうとしてたところだったし」
「……本当なの?」
彼の主張に目を瞬かせる。てっきり寂しいから、また彼女を作ったのかと思ったのだ。
みちるの問いに、叶は不快そうに、眉を僅かにひそめる。
「この期に及んで嘘ついてどうすんのさ? 彼女だったら彼女だったっていうよ。みちるに隠し事してもしょうがないじゃん。すぐばれんのに」
「……それも、そうね」
他人に対してポーカーフェイスの上手い叶は、なぜかみちるに対しては嘘が下手だ。機嫌のよさもそうだが、なにかにつけてすぐに顔に出る。とはいえ、そう思っているのはみちるだけで、奈々子に言わせれば、どれもおんなじ胡散臭い笑顔に見えるらしい。どうして不機嫌だとか、そうでないとか、おなかが空いただとか、彼の心中を図ることができるのか、彼女にしてみればひどく不思議であるらしかった。
「みちるこそ、芝崎と何やってたんだよ?」
「私? 映画見てきただけだけど……」
「映画ぁ!?」
叶の眉間に深い皺が刻まれる。明らかに、憤っている。その剣幕に身を僅かに引きながら、みちるは頷いた。
「う、うん……」
「何で!?」
叶の表情は妙に鬼気迫るものがある。彼の纏うオーラに、首を傾げながらみちるは呻いた。
「な、なんでって……いこうって誘われたから」
「そんなこと判ってるよ! なんでそれについていくんだよみちるも!」
「え、だ、だって、みたかったし」
「そんなん佐々木と行けばいいじゃんか!」
「だってチケット余ってるからって言われたんだもの!」
「そこでおかしいって気づけよ! 普通は友達誘うだろ!?」
「だってラブストーリーよ!? 恥ずかしくて男の子誘えないっていうんだもの!!」
「信じるな!」
「え!? 嘘なの!?」
「嘘にきまってんじゃんそんなん!」
「し、芝崎君嘘つくような人じゃないよ!?」
「それも知ってるよ!」
「どっちよ!?」
「あーもーなんでここまで言われて気づかないの!? この女はすっげー鈍い!」
今にも地団駄を踏みそうな勢いで、叶が歯噛みする。一体何が鈍いと言われているのかさっぱりわからないみちるは、首を傾げ続けることしかできなかった。
前髪を掻きあげながら、彼は嘆息交じりに呻く。
「これだから、焦るんだよ……」
「……焦る?」
彼の言葉の意味が理解できず、みちるは鸚鵡返しに問うた。しかし叶は、前髪をくしゃりとかき回して、みちるから視線を逸らし答えようとしない。
みちるは嘆息に大きく肩を揺らした。なんだか、疲れた。
「まぁ、ともかく、置いてきたことには変わりないんだから、あんたもちゃんとあやま」
「みちる」
みちるの言葉を遮って、叶の手が頬に触れる。
声の掠れた呼びかけが聞こえたと思った瞬間、顔に影がさし、ひやりとした唇が――触れた。
「すこし、黙って」
叶の声には強制力がある。それは彼だけではなく、彼の兄たちも同じだった。穏やかで、耳の奥に残る、触りのよい声音。
それが命令する。
口を、閉ざせと。
柔らかい感触が唇に触れる。まるで小鳥の戯れのように、二度、三度、それはみちるの唇をついばんでから、離れた。
いまさらだが。
体中の血が逆流したように、頭がのぼせる。かっかと火照って何もいえないみちるを、叶は再度抱き寄せた。
「みちるのお小言煩いとき、こうすれば当分黙るね」
「――っ、あの、ねぇ!」
「すんの、嫌?」
眼前に、少年の顔がある。
少年というには、あまりに艶のある、美しい造詣の男の顔。その顔が、先ほどの揶揄するような口調が嘘のように、ひどく真面目な表情を浮かべてみちるの顔を覗き込む。
そのあまりに真っ直ぐな眼差しを直視していることができなくなって、みちるは額を彼の肩口に押し付けた。
「……ひ、ひどい男……」
「知ってる。それで嫌なの? 嫌なら、やめるけど」
「私が嫌だったら、やめてくれるの?」
思い返せば、別にあの夜のことだけではなくて、いままでみちるが嫌がることを彼がやめてくれた例はほとんどないのだということに気が付いた。目を合わせた叶は、薄く笑うだけだ。
「で、どっち?」
「……や、じゃない……」
叶相手にこのようなことを言うようになるとは思ってもいなくて、どうにか紡いだ声は、ひどく震えてか細いものだった。
視線だけ動かして叶の表情を確認する。彼は満足げに、小悪魔のような笑顔を口元に刻んでいた。
再び目を伏せて、低く呻く。
「叶って……昔からホント私にだけ意地悪よね……」
不思議だった。どうして自分にだけ冷たく突き放すのか。どうして自分にだけ、他の女の子と同じ優しさを分け与えることがないのか。
その差別が憎くくてたまらなかった時もある。
「あぁほら、僕って本当に好きな相手を苛め抜きたくなるタイプだったみたい」
「笑って真顔でいうなそんなことをっ!」
楽しげに笑った叶は、沈黙するみちるを抱きなおす。
「――白状するとさ、僕はみちるを、いまさら離す気はないんだ。嫌だっていうなら、閉じ込めるよ」
鳥かごの中に入れる。さも当然のように彼は言う。先ほどの笑みとはうってかわった、暗い瞳だった。
もし自分が彼を拒否すれば、彼は本気で自分を鎖につないで、どこかに監禁するのだろう。
なぜか、それを怖いことだとは思わなかった。
「みちるを失うのは、本当に嫌だ――嫌なんだ」
泣きそうに、息苦しそうに、美しい眉を歪めて彼は言う。
「かな」
「僕だけは、みちるの傍から離れない。だからみちるも、僕の傍にいてよ」
再度面を上げて、叶を見やる。穏やかだが、悲しい寂しさに満ちた目だった。けれどこの目をみちるは知っている。彼に初めて出会ったとき、なんと自分の目に似ていることかと思った。そして、それは今も変わらない。
みちるの体を抱く彼の手は変わらず冷たかったけれど、少し汗ばんで、震えていた。
頼りない、子供のように。迷子になりかけた、子供のように。手を振り払われる、そのことに恐怖する、子供のように。
震えていた。
その震えを抱くように、みちるは大きくなってしまった彼の手を握った。
「わたしもね」
自分たちは、飢えている。
そして自分たちだけ、お互いが何に飢えているか知っていて、その欠落してしまったものを、補える。
だから、離れない――離れられない。
「叶を失うの、嫌でたまらなかったよ」
この少年の隣を、失ってしまうことに恐怖した。理由なく犯された痛みより、喪失の恐怖のほうが胸に辛かった。
彼を失えば、自分が窒息してしまう。
少年の身体を抱きしめる。同じ力で、抱き返される。そのことに、ひどく安堵した。いままでこんな風に抱きしめられることなどなかったけれど、奇妙なことに、帰ってきたという実感めいたものがみちるの心を温めた。
「やっぱ僕ら、似たもの同士だよね」
「まったくだよね。どうしておんなじこと、考えちゃうんだろうね」
「むかつくなぁ」
「ほんと、馬鹿みたい」
くすくすと笑い合う。あまりにも似すぎて、彼を通して自分の愚かさが見えて――嫌いだった。ずっと。
なのに、いつの間に。あぁ。こんなに。
欠けてはならないものに、なってしまったのだろう。
叶の両手がやわらかくみちるの頬を挟む。上げさせられた目線に彼もまた視線を合わせてくる。
「ごめん傷つけて」
「ホントだよ……」
「痛かったよね」
「うん、痛かった」
「寂しかった?」
「寂しかった」
「ごめんね」
「うん」
一拍置いて、彼は泣きそうな顔で笑い、みちるの首筋に口付けを落とした。
ちりりとした痛みがかすかに走る。
その痛みが、証だといわんばかりに。
永遠に傍を離れず、永遠に、その隣を埋め――……。
そして永遠に、互いを独占する。その契約を、今自分たちは結んだのだと、熱に鈍っていく意識の片隅で、ふと、思った。