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大人になる方法 5


 シャワーの音が聞こえてくる。
 ベッドに腰掛け、携帯電話を弄りながら、彼女がシャワーを浴び終えるのを待っている。
 携帯電話を閉じて、嘆息した。
 天井を、仰ぎ見る。
「なに、やってんだろう、ほんとうに」


 心臓の音が、本当に五月蝿い。早鐘みたいに、ずっとばくばく言っている。
 私は生まれて初めて入るラブホテルとやらに入り、生まれて初めて男の人に抱かれるためにシャワーを浴びていた。自分で先輩に懇願しておいてなんだけど、緊張で頭の中は真っ白だった。
 ぎくしゃくとシャワーを浴び終えて、震える手でバスタオルを身に着ける。ふ、ふかふかだ。家のバスタオルよりふかふかだ。そんなことを考えながら、意識を散らそうとする自分が情けない。
 これから、私は大人になるの。
 意を決してシャワールームから出て、先輩の前に立った。携帯電話を弄っていた先輩は私を見るなり目を細め、立ち上がると、手にしていた携帯電話をベッドサイドのボードに置いた。
 にこりともせず、ひやりとした目のまま、先輩の手が私に伸びる。
 猛禽類の、鉤爪のようなそれは、まさしく獲物を捕らえたときのように乱暴に私の肩を掴んで、私をベッドの上に叩きつける。いくらスプリングの利いているベッドの上だとはいえ、予期せず叩きつけられたせいか、呼吸が一瞬止まる。私は固く目を閉じて、続けて伸びるだろう先輩の手を意識した。
(だいじょうぶ、だいじょうぶ)
 かたかた震える肩に、止まれ、と命令する。
 大丈夫。
 これは、私が選んだこと。
 たとえ先輩が乱暴に私を抱くことしかできないとしても、先輩に私に想いがなかったとしても、私がそれごと先輩を抱きしめればいい。
 けれど、続きはいつまでたっても、来なかった。
「……せん、ぱい?」
「むりだ」
 先輩は、ベッドに膝立ちになって、私を見下ろしたまま、口元を覆っていた。
「むりだ。ごめん。ぼくには、できない」
「せんぱ」
「服を来て。ここから、出よう」
 先輩は蒼白な顔色で私の上から退いて、ベッドを下りた。枕元に腰を下ろして、顔を覆ってしまう。
「ごめん。無理だ。できない。僕には、もう」
「どうしたんですか? 先輩」
 私はバスタオルを巻きなおしながら、先輩に歩みよる。
「いいから、服を着なよ」
 手から顔を上げた先輩は、苦笑しながら私に言った。
「でも、どうして……」
「やっぱり、こういうのはよくない。君を本当に、好きだといってくれる男が現れるまで待ちなよ。男の僕が言うのもなんだけど――初めてっていうのは、女の子にとって痛いものだから。その痛みごと、君を抱きしめてくれる男を選びなよ」
「……私じゃ、だめなんですか」
「君の想いはうれしいと思う。でも、君じゃない」
 じゃぁ、誰なんですか。
 先輩が、抱きしめたい人。
 先輩を、抱きしめてくれる人。
 それは、一体誰なんですか。
 私は、先輩に問いかけることができなかった。
 先輩は、痛々しく微笑んだ。
「本当に、ごめん」
 私は首を横に振った。
 本当に謝るべきは、私のほうだったから。


 身支度を整えて、街へ出る。冬の日暮れは早い。外に出ると、もう空は橙色に染まっていて、群青色に塗り換わるのも時間の問題だった。
「寒いですねぇ」
 私は、隣を歩く先輩に言った。
「うん。もう完璧に冬だよね」
 先輩は、同意した。
「ですね。だってイルミネーションも全部クリスマス」
「僕クリスマスの電飾、嫌いなんだよね。なんかプレゼント買えって追い立てられてるみたいで」
「あははは! もしかして今まで付き合った彼女さんに、プレゼントすごく要求されたこととかあるんですか?」
「あるある。腐るほど」
 げんなりとした様子で呻く先輩に、私は笑い声を立てる。
 先輩の心は縛られない。けれど先輩の心を要求する女の人たちが、その証としてイベントごとにプレゼントを要求する。想像は、すぐ付いた。
 二人で並んで歩けるのも、いつまでなんだろう。
 多分、今日限りだと思うけど。
 私は先輩との時間を、少しでも引き延ばしたくて、先輩の袖を引いた。
「ねぇ、先輩!」
 大通りに、出る。
 先輩の足が、ふと止まった。
「……先輩?」
 先輩の顔が、凍てついている。
 唇が震えて、何かを凝視している。
 私は、一度先輩の顔を覗き込んでから、その視線の先を追った。
 先輩が見つめていたのは、そう遠くないところ。デパートの、クリスマスツリーのイルミネーションの前に立つ、一組の男女だ。
 どちらも、私と同じ高校生だと思う。男の人はともかく、女の人は見覚えがあった。
 ファーのついた白のコートを着て、チェック柄のスカートにタイツをはき、ブーツを身に着けている。上は黒のセーターだった。
 学校で見たときは眼鏡だったと思うけど、今はコンタクトをしているのか、かけていない。髪の毛綺麗に結って、シュシュかコサージュで纏めている。お世辞ではなく、私からみてもすごく可愛らしかった。
 あの、昇降口で、先輩の下駄箱の前にいた人。
 その人も、同じように立ち止まって、先輩を凝視している。
 ぱっちりとした目を見開き、ちっちゃなつくりの唇を震わせて、何かを、訴えるようにして先輩をみている。
 先に動いたのは、先輩だった。
「いこう」
 私の腕を引いて、その人に背を向ける。先輩の表情は張り詰めていて、その顔色は、透き通るように蒼白だった。
「せ、んぱ」
「い、委員長っっ!?!?」
 背後から、悲鳴のような叫びが聞こえた。
 先輩が、再び足を止めて、私と共に振り返る。
 先ほどと同じ場所に、男女が立っている。
 ただ、女の人は、泣いていた。
 先ほどと同じように、直立して。こちらを目を見開いたまま見つめていて。
 その頬を、はらはらと、透明な雫が、伝っていく。
 その人の傍らにいた男の人が、おろおろと女の人を揺すっている。けれどその人は、男の人の声に反応を示すことはなくて、こちらを見つめたまま動こうとしない。
 ただ、泣いてる。
 ふと、私の傍から気配が動いた。
「……!? っ、先輩っ!?」
 翻った茶色のコートに、私は驚愕に声を上げていた。先輩が、女の人のほうに向かって駆け出している。
「せんぱい! まって……!」
 私の制止の声もむなしく、みるみるうちに遠くなってしまう先輩の姿。一心不乱、という表現がぴったりの走り方だった。
 先輩は、女の人の前で立ち止まり、肩を大きく揺らした。続けて聞こえてくる、口論らしき男女の声。
「――!」
「――!」
「……!」
「……」
 内容まではわからない。
 けれど、両方の声音とも、とても苦しそうだった。
 聞いている私のほうが胸潰れそうなほど、本当に、苦しそうだった。
 しばらく何かを言い合って、そして決着がついたのか、先輩が私のもとに戻ってこようと踵を返す。
 けれど、先輩の服の裾を、女の人の指先が引いて、先輩を引き止めた。
「……」
 女の人が、何事かを呟く。
 私の場所からは、小さな唇が、震えたようにしか見えなかった。
「……」
 もう一言。
「……」
 そして、もう一言。
 刹那。
 先輩の手が、女の人の手を引いた。
 小さな体を、その腕の中に、乱暴に招き入れる。
 ちから、いっぱい。
 まるで、抱き潰すみたいにして。
 女の人の体が耐え切れず、膝を折るほどに、強く。
 その背に、愛おしさを滲ませて。
 先輩は、その女の人を抱きしめる。
 ふと、その先輩の腕の下から、白い手が伸びた。
 先輩の頭、先輩の体、先輩の悲しみや、痛み。
 そういったもの、一切合財を全て、抱え込むようにして、女の人は華奢な腕で先輩の身体を抱きしめた。そして、泣き声が弾ける。あの女の人の泣き声は、先輩の胸に押し付けられて、すぐにくぐもった。
 クリスマスのイルミネーションが、きらきら光っている。
 まるで、二人に、スポットライトを当てるように。
 思い出す。
 震える声で先輩の名前を呼んでいた女の人。
 思い出す。
 遠く、誰かを探していた先輩の眼差し。
 私は、顔を覆いながら、唇をかみ締める。
 ――あぁ、私は目撃者だったのだ。
 互いを探す眼差しの、目撃者に過ぎなかった……。
 私が再び面を上げたとき、先輩は、泣きじゃくる女の人の手を引いて駆け出していた。
 遠くなる。
 先輩の姿、人ごみにまぎれて、見えなくなる。
 かすんで、みえなくなる。
 あぁ、いってしまう。
 せんぱいがいってしまう。
 せんぱい。
 いかないで、せんぱ――……。
「おねーちゃん、大丈夫?」
 突如かけられた幼い声に、私は息を詰めた。
 周囲を見回し声の主を探す。すぐに、見つかった。私の衣服の裾を引いて、私の足元で、小さな女の子が首を傾げていた。
「こら!」
「やー!」
 女の子を私から引き剥がし、母親らしき女の人が頭を下げる。
「す、すみませんこの子が」
「いえ」
「おかーさん、なにすんのぉー!?」
「いけません!」
 母親の腕の下、暴れる女の子は、弟と同じぐらいだろうか。彼女は母親の腕を懸命に押しのけながら、母親に主張した。
「だって、いたいのいたいの、とんでけーってしなきゃ! しなきゃなの!」
「だめです!」
「なんでよぉ! いたいんだよ! おねーちゃん、ないてるんだもん!」
「……え?」
 女の子の言葉に、私は小首を傾げ、自分の頬に手を伸ばす。指先に触れた感触に、私は思わず呻いていた。
「あ、あは」
 泣いてた。
 私、泣いてた。
 あの女の人みたいに。
「あは、やだ、私……」
 ぽろぽろ、涙がでて、止まらない。
 泣きたくなんかないのに。
 止まらない。
「すみませんうちの娘が……あの、これ……」
 具合悪そうに、女の子のお母さんが、ハンカチを差し出してくる。私は慌てて、辞退のために手を振った。
「だ、大丈夫です。私、自分で持ってますから」
 トートバッグの中を探って、ハンカチを取り出す。それで目元を押さえながら、私は先輩たちの去ってしまった方向を見つめた。
 女の子のお母さんも、私に釣られてそちらを見やる。
「……なんか、映画みたいでしたね」
「ですね」
 私は、鼻をすすりながら、女の子のお母さんに同意した。
 本当。映画みたいだった。
 映画の、綺麗な、ワンシーンみたいだった。
 私は笑って言った。
「感情移入しすぎて、泣いてしまいました」
 私の言葉が嘘だと、判らないわけではなかっただろう。ただ、その見知らぬ人は私と一緒に笑ってくれた。
「えぇ、私も、泣きそうになりました」
「あ、お母さんみてみてー」
 母親に抱かれた女の子が、身を乗り出しながら空を指差す。
「雪!」
 ひらりと。
 空から白いものが降ってくる。
 私はまた、泣いてしまった。
 先輩の手。
 その温度を、思い出したからだった。
 大人になれと、私を励ましてくれた、あのひとのてのひらは、雪のようにつめたく、そしてやさしかったのだ。


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