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大人になる方法 3


 ようやく四時限目が終わって、昼休みになる。教科書を揃え、机の中へそれらを放り込んでいた私は、後ろの席のクラスメイトに肩を叩かれた。
「ねーアズサ、妹尾先輩、迎えにきてるよ」
「え?」
 クラスメイトが指さす先には、確かに妹尾先輩。
 彼は私と目を合わせると、にっこりと微笑んで手を振った。


「そういう理由か」
 昼休み、いつもの中庭に上がって、先輩は私から事情を聞きだした。巻き込まれた以上、無関心ではいられないと思ったのだろう。
「結構、厄介だね」
 先輩はそれだけ言って、パンをかじった。昼食を咀嚼する先輩の横で、私は小さく縮こまる。
 両親が、口論を繰り返すようになったのは、いつからだろう。
 お父さんは出張が多くて、家に滅多に寄り付かなかった。結構大きな会社に勤めている。おかげで私たちお金には困らなかったけれど、お母さんは寂しかったんだろう。
 夫がいなくてのびのびとやれる、という人もいるとは思う。でも私のお母さんは違ったんだ。
 どこかの会社の令嬢とかいう箱入り娘で、駆け落ち同然でお父さんと結婚したと聞いた。お金持ちの箱入り娘だから普通の奥さんとどこか論点がずれていて、友人もなかなかできない。一人ぼっちのお母さんは、やがてお父さんとは別の男の人と付き合うようになって、トモを産んだ。
 お母さんは、トモはお父さんとの子供だって主張するけれど、お父さんはそれを信じていない。昨日も、トモが私の帰りを待たずに粗相をして、お父さんの怒りを買ったのだ。
 私にしてみれば、トモはかわいい弟に違いないから、どちらでもいいんだけど。
 ただ、もう、あんな日々は嫌だった。
 毎日毎日、口論しか響かない家になんか、帰りたくなかった。
 お父さんもお母さんも、嫌い。
 だから、私は早く大人になりたくて――……。
「どうして、僕と付き合いたいなんて、思ったわけ?」
「大人になるために、出来ることは全部しようって思ったの。家事とか勉強は当然として、あとはアルバイトとか色々考えた。……あとはセックスぐらいかなって、思ったの」
 男の人と身体を重ねれば、大人になれるんじゃないかと思った。
 ほら、女になるって、表現したり、するでしょう?
 でも私は、見知らぬ男の人を捕まえてセックスしてくださいなんて頼む度胸、なかった。
 彼氏さんっていう存在に、せめて抱いてもらいたかった。
「僕を選んだ理由は?」
「……彼女さんがいない間は、すんなりお付き合いにオーケーしてくれるって、聞いたから」
 そのことに、先輩を巻き込んでしまったのは、本当に申し訳ないと思う。
 先輩だったら、いいかなって思ったの。だって、私以外にたくさんの女の子とお付き合いしたことがある。ひとりぐらい、先輩を好きじゃなくて、こんな風に打算で近づいた子がまぎれて、また別れても、大丈夫そうだと思って。
 今考えたら、なんか、私先輩に対して最悪だったって思うけど。
 そのとき初めて、先輩は眉を不快そうにひそめた。
「僕、みんなにそんなに女好きだとでも思われてんのかなぁ。心外」
 その表情をみて、私はますます小さくなる。
「ごめんなさ」
「ま、確かに断る理由がないときは断ってなかったけどね」
 自嘲気味に笑って、先輩はパンの袋をゴミ箱代わりのビニール袋の中に放り込む。先輩は、紙パックの野菜ジュースにストローを差し込んでいる。その横顔を見つめて、私は尋ねた。
「……怒って、ないんですか?」
「怒ってはない。ただ、呆れてる」
「呆れて」
「うん」
 先輩は町のほうを見つめながら、大きく頷いた。
「セックスで人が大人になれるなら、世界は大人で溢れてるよ。君のお父さんやお母さんだって、君たちの心情を考えて、もう少し冷静に対応できるんじゃない? でもそうじゃない。身体をいくら誰かと重ねたって、大人になれるわけじゃない。君の労力は、徒労だよ」
「だったら、どうしたら、よかったんですか!?」
 私は立ち上がって叫んだ。先輩が僅かに目を瞠って私を見上げる。私は爪が食い込むほど硬く手を握り締め、続けて叫んだ。
「どうやったら、大人になれるんですか? 親の都合に振り回される、子供なんてもうまっぴら! 振り回されないようにするためには、私は、大人にならなくちゃいけなかった――……!!!」
 まず最初に、自分でご飯を作れるようになるところから始めた。洗濯物を片付ける。弟の面倒を見る。勉強をする。アルバイトをして、お金を稼ぐ。
 けれどそんなことをしても、大人にはなれない。私は今すぐ、大人になりたい。なりたかったのに……。
 大人になる方法が、もう他に、思い浮かばなかった。
「親の都合に振り回されないようには、大人にならなきゃいけないっていう考えには僕も賛成」
 先輩は、紙パックが空になったのか、それをビニール袋の中にしまいこんだ。
「でも、自分で家事ができるようになったり、仕事ができるようになったり、異性と身体を重ねることが出来たとしても、子供は子供のまんまなんだよ」
 私の考えを見透かしたような先輩の発言に、私は戦慄して立ち尽くす。
「最近さぁ、僕も色々考えることだらけでさ。思うんだけど……」
 そういい置いて、先輩は言葉を続ける。
「人は一人じゃ大人にはなれない。自分に跳ね返ってくるものがなければ、いつまでも傲慢な子供のままだから。大人になるっていうことは、きっと体じゃなくて、誰かと言葉と心を重ねてなるんだ。そうやって、誰かと絆を作って、人は大人になっていく」
 先輩の言葉は、抑揚が殺されていたにも関わらず、どこか悲痛に響いた。
 淡白であるがゆえに、どこか痛々しい。
 先輩は、笑って言った。
「頭でわかっていても、実行って難しいよね。……だから、大人にはなかなかなれないものなんだって、僕は思うよ」
「……じゃぁ、どうしたらいいんですか?」
 言葉と心を重ねるって、どうしたらいいんだろう。
 私の両親の目に、私と弟の心は映っていないのに。
「君、ご両親に向かって、あんたたちなんていらないって、言ったでしょ」
「……言いました」
「でも、それは本当の君の願いじゃないよね?」
 私は、頷かなかった。
 ただ、どうして先輩は、そんなに人の心が読めるんだろうって、不思議に思った。
「今度、ご両親とご飯食べる席、一つ設けてよ」
「……どうするんですか?」
「そりゃぁ、ご両親にご挨拶しなきゃだもん。君が『僕と離れたくないから町に残る』なんて、大法螺吹いてくれたから、ご両親も僕と君がお付き合いしてるって思ってるだろうし」
「それ、は」
「いいから、一席作って」
 先輩が主張する。私に、拒否権はない。私が、先輩に迷惑かけているんだから。
「多分、家がいいんじゃないかなぁって思うんだけど」
「何、するんですか?」
「別に」
 先輩は立ち上がって言った。
 そして、悪戯でも思いついた子供のように、口の端を得意げに吊り上げてみせたのだ。
「子供のままでも、声の上げ方はあるって、教えてあげるよ」


 先輩に言われるままに、私は彼氏が遊びにくるので、食事の席を設けてほしいと両親に伝えた。
 先日醜態を見せたことも関係しているのだろう。両親はそれぞれに、躊躇いながらも首を縦にふり、いつがいいかと話し合うことになった。
 先輩が家に来ることが決まったのは、私が先輩に付きまとうようになって、二週間目の夜のことだった。


 ケータリングで用意された豪華な料理がテーブルの上に並ぶ。
「改めて初めまして。妹尾叶です」
 歪な家族の食卓に入り込んだ先輩は、これ以上ないほどのにこやかな微笑を浮かべて、自己紹介をした。
「先日は……失礼いたしました」
 先輩の美貌に圧倒されたのか、お父さんはいつもの威圧感を欠片も覗かせず、丁寧に頭を下げる。
 先輩はいいえ、と穏やかに返した。
「気になさらないでください。多少、驚きましたけれど。今晩はお招き、ありがとうございます」
 先輩の所作は完璧だった。どこでそんなマナーを身に着けてくるんだろう。挨拶の仕方は無論、声の穏やかさや、料理を捌いていくナイフとフォークの使い方。箸の持ち方一つにとっても優美だ。
 お母さんもお父さんも、緊張したように口を開かない。弟と先輩だけ、妙に打ち解けて笑い合っている。
 奇妙な緊張感漂う食卓が終わりを告げ、お母さんが食器類を台所へ運んでいく。
「コーヒーでも入れましょう」
 そういって微笑んだお母さんに、先輩は首を横に振った。
「いいえ。どうぞ座ってください」
 まるで、先輩のほうが家主のように堂々としている。先輩の指示に逡巡を見せながらも従ったお母さんは、お父さんと顔を見合わせて先輩を見た。
 組んだ足の上で、手を組み合わせて、嫣然と微笑む先輩を。
「話があります」
 先輩は言った。
「まず最初に、誤解を一つ解いておきたいんです。僕は、別にお嬢さんとお付き合いをしているわけじゃぁありません」
『え……』
「先輩!?」
 突然何を言い出すのだ、と、私は立ち上がり、無言で先輩を非難した。先輩は私に微笑を寄越す。
「もう一つ付け加えておくのなら、お嬢さんのほうも、僕を好きなわけではない。僕も、お嬢さんを愛しいと想っているわけではない」
「……では、なんで……」
 娘の恋人として、この食卓の招待に応じたのか。
 お母さんの問いに、先輩は口元の笑みを深くする。
「監視です」
「監視?」
「彼女が、逃げない、ための」
「……え?」
 急に話を振られて、私は立ち上がったまま先輩を驚愕の目で凝視した。先輩が笑みを消す。私に向き直った先輩は、顎で私に着席を促した。
「彼女は、あなた方に、話があるようですよ」
 先輩は淡々と言って、私に視線を寄越した。
「ほら、言いたいこと、あるんだよね?」
 膝の上で握りこぶしを作りながら、私は必死に考える。言いたい事――言いたい事? この、自分の都合ばかり並べ立てて、私たち兄弟の声、聞こうともしなかった、この親に?
「……あんたたち、なんて、いらな」
「違うじゃん」
 先輩は、私の言葉を遮った。
「君も、わかってないなぁ。僕が何のために、この席を作ってもらったと思ってんの? きちんと自分の願いを伝えなよ。痛いなら痛い、苦しいなら苦しい。訴えなければ、人は誰も助けてくれない」
 先輩は一度そこで言葉を区切る。自戒するように、目を伏せて、先輩は言う。
「言葉で、訴える。それは、大人にしか、できないんだ」
 子供は泣いて訴える。
 子供は暴力で訴える。
 なぜなら彼らは、思いを伝えるべき方法を他に持たないから。
 だから、言葉で思いを伝えることは、大人だけの、特権。
 私は、両親に向き直って、一度唇を引き結んだ。
 唾を嚥下して、大きく深呼吸。
 そして、言った。
「私、本当は、お父さんとお母さんに、別れて欲しくなんかない」
 先輩が、テーブルの下で、私の手を握っていてくれる。
 ひやりとした手。
 優しいなと、思った。
 がんばらないといけない。先輩に、応えるためにも。
「私、お母さんがトモを妊娠したときのこと、覚えてるよ。男の子だって判って、キャッチボールして遊ぶんだって、お父さん子供みたいにはしゃいでた」
 お母さんが浮気してたってわかったのは、トモが生まれてからしばらくして。それまで、私たちは普通の家族だった。
「そりゃ、お母さんが悪いよ。でも、お父さんだって責められないよ。お母さん大変だった。なれない家事をたった一人で一生懸命こなしてた。なのにお父さん、仕事休みの日はゴルフだ接待だっていって、家に全然よりつかなかった。お母さんのこと、召使かなにかみたいに扱ってたじゃない」
「あず」
「お母さんも、どうして他の男の人に逃げる前に、私に相談してくれなかったの? 私、子供だけど、私、お父さん……あぁ」
 ちゃんと、言葉にならない。
 胸の奥から競り上がってくる嗚咽に、言葉が詰まる。
 こんな風では、いけないのに。
 きちんと、言葉で、つたえなきゃ。
 おとなになれないのに。
「どうして、仲直り、できないの? どうして、仲直りしようって、努力できないの?」
ぽたた、と、雫がこぼれる。鼻をすすって、私は言った。
「私、お父さんも、お母さんも、大好きなの」
 なんだか、情けない。
 泣いて泣いて、ちっとも大人じゃない。
 だけど、言わなきゃ、私。
 私の、本当の願い。
「私、また、みんなで、なかよく、くらしたいよぉ……」


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