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大人になる方法 2


 先輩の隣に大人しく付いて歩く。先輩は、私のことを彼女だと主張することもないけど、彼女じゃないと反論するわけでもないから、付いて歩いて、先輩と言葉を交わせば、周囲が彼女だと誤認してくれる。
 図書室で勉強をしながら、先輩の部活が終わるのを待つ。その間、先輩との関係について根掘り葉掘り追求してくるクラスメイトたちを軽くあしらうのも、もう慣れた。
 もともと私と彼女たち、そんなに深く付き合いがあるわけじゃないし、いかにも興味本位から話しかけてくる彼女たちに、事情を話してあげる義理もない。
 時計を見て、私はそろそろ先輩の部活が終わる頃だと思った。荷物を纏めて立ち上がり、昇降口に急ぐ。
 もう下校時刻もとうに過ぎているから、昇降口は閑散としている。冬の風が吹き込んでとても寒い。下駄箱に向かって歩を進めていた私は、ふと、先輩の下駄箱の前に佇む女の人を見つけた。
(こんなところで、何してるんだろ)
 風が次々に吹き込んで、玄関の端に溜まった枯れ葉の屑を揺らしている。息が白くなるほど寒いのに、その人はじっとして、その場から動こうとしない。
 見覚えがある。けれど、誰だかわからない。
 物陰に隠れてよくよく観察して、ようやく思い出した。先輩のクラスの委員長の人だった。
 最後にその人を見かけたのはいつだったか忘れたけれど、でも私はびっくりした。記憶にあるその人と、まったく別人のように思えたんだ。
 最後にその人を見かけたときは、先輩の教室の片隅で、友人らしき人と教科書を開いていた。長い髪を適当にお下げにして、眼鏡をかけていた。なんだか、暗い雰囲気の人だなぁと思ったのを覚えている。
 なのに今、先輩の下駄箱の前に立つ人は、はっと息を呑むほど綺麗だった。こんなに綺麗な人、いたっけ。そう思ったから、その人が誰だか思い出すのに時間がかかったのだ。
 髪を綺麗に纏めて、後ろでお団子にしている。あらわになった白い首筋にかかる数筋の後れ毛が、ぞっとするぐらいに艶やかだった。かみ締められた薄桃色の唇。高潮した頬。眼鏡の奥で震えている睫はすごく長くて、潤んだ瞳は切なげに細められていた。
 その指が、妹尾先輩の下駄箱を撫でる。開いたもう一方の手の平には、何か銀色のものが握られていた。
(鍵、かな)
 私の立つ位置から見ると、その手のひらにある銀は、鍵の形をとっているように思えた。
 女の人は、やがてその銀を握り締めると、拳ごとそれを自分の唇に押し当てる。
 何かを、祈るように。
 唇が小さく動いて、名前を紡いだ。
「……かな、え……」
 その響きに、どきりとする。
 妹尾先輩の、名前だった。
 何を、しているんですか――……?
 私が問いかける前に、女の人は目を開き、意を決したように踵を返す。傍においてあった学生鞄を手にとって、その人は校舎を出て行った。
 小さな背が、校門の向こうへと消えていく。
 震える女の人の声が、耳にいつまでも残って、私はその場に呆然と立ち尽くしていた。
「何してんの?」
「ひゃぁ!!!」
 それから、どれぐらい時間が経ったんだろう。
 ぽん、と背後から唐突に手が置かれ、私は飛び上がった。
「せせせせ、先輩!? お、驚かさないでくださいよ!」
「いや、別に、というか、驚いたのはこっちなんだけど……」
 私の背後に立っていたのは、部活のユニフォームからすでに学生服に着替え終わっている妹尾先輩だった。
「せ、先輩、部活は……!?」
「終わったよ。職員室に用事があったから寄って帰ってきたところ。何してんの?」
「も、もちろん待ち伏せです!」
「待ち伏せか……」
 がくりと肩を落として、妹尾先輩は呻く。そのまま私の前を通り過ぎ、下駄箱を上けて靴を取り出した。
靴を履き終え、スポーツバッグのベルトを肩にかけた先輩は、私を振り返って言った。
「どうしたの? 帰るんじゃないの?」
「え?」
「夜道暗いから、送ってくけど」
 肩をすくめて、さも当然のように先輩が言う。
 私は笑顔で頷いた。
「はい」


 妹尾先輩は、紳士だと、思う。
 さりげなく、先導してくれる。さりげなく、扉を開けてくれる。さりげなく、車道側を歩いてくれる。そして、夜道なら、必ず安全だというところまで送ってくれる。
 そういうことできる男子高校生、私は他にしらない。ううん。大人の男の人だって、そこまで出来る人なんていないと思う。
 先輩と付き合ったことのある女の人は、大抵自ら別れを切り出すんだと聞いた。最初は顔。でもこういう先輩の紳士なところとか、どんな些細なことにもきちんと付き合ってくれるところとかを、どんどん好きになって、苦しくなるらしい。
 好きになればなるほど、先輩の対応が、どんな女の子に対してもそう変わらないのだと知ってしまうからだと。
 その意味は少しだけわかるような気がする。私は先輩の言うとおりに、確かに先輩のことが好きでお付き合いを切り出したわけではないけれど、先輩の紳士なところにをとっても好きになり始めていた。こんなんじゃだめだな、と思う。きっと、後が辛い。
 私は先輩と恋愛するために、先輩にお付き合いを懇願したわけじゃ、ないんだから――……。
 帰り道、先輩と私はほとんど話をしない。人懐っこくておしゃべりな人だと思っていたのに、先輩は私が話しかけない限り、ほとんど言葉を発しない。意外に物静かだった。
 私も、本当は人と話すの苦手。だから、とっても楽だった。
「ここまででいいです」
 家の近くまできて、私は先輩に頭を下げる。
「ありがとうございました」
「そう? じゃぁ、気をつけて」
「はい」
 私は、家のすぐ前まで先輩を寄せ付けない。玄関先まで見届けようと、最初送ってくれたときに先輩は言ったけど、近いからいいですと私は断った。先輩は理由を尋ねようとはしない。あっさり引き下がってくれる。それも、とても楽なところの一つ。
 先輩を、お付き合いの相手に選んだ私は間違っていない。
 ……うん。お付き合いはしてないんだけど。
 先輩を見送る意味を込めて手を振った私は、背後から響いた子供の悲鳴に振り返った。
「おねええぇちゃぁあぁぁ!!!!」
 驚愕に、思わず私は声を張り上げる。
「――っ!? トモ!?」
 振り返った先、道路の真ん中に突っ立ってわんわん泣くのは、今年四歳になったばかりの弟だった。
「トモ、どうしたの!? そんな格好で……!」
 私は鞄をその場に置き去りにして弟に駆け寄り、弟の姿を確認した。よれよれのトレーナーには食べ零しが付着している。上着も何も来ていない。足は素足だった。アスファルトの上を歩く際に硝子の破片か何かで切ったのだろうか。足からは血が滲んでいる。
「お、おかーさんと、おとうさんが……!」
 ひっく、としゃくりあげながら弟は私に訴える。またか、と私は臍をかんだ。泣き喚く弟を抱き上げ、家へと急ぐ。
 玄関に到着すると、がしゃん、という、陶器の割れる派手な音が響いていた。
 弟を玄関先に下ろして、私は廊下を急ぎ、リビングに続く扉を乱暴に押し開く。
「いい加減にしなさいよ!!!」
 扉が開くと同時、母の金切り声が耳朶を打った。
「トモとアズサは私が引き取ります! そうやってすぐ暴力に訴える人に、子供を任せられるはずがないじゃないの!!」
「お前が判らず屋だからだろう!!!」
 母の金切り声に負けじと、怒声を張り上げたのは父だ。大柄な体格を戦慄かせて、拳を振り上げながら父は主張する。
「お前みたいな世間知らずの箱入り娘に、子供二人など育てられるものか! 家事もろくにできないくせに、何を言っている!! トモは貴様にくれてやる!! だがアズサは絶対に渡さん!!」
「そうやってまたほったらかしにするんでしょう!? そういうのは、育てるなんていわないのよ!! 仕事と結婚でもしてればいいじゃない!!」
「何だと!? 俺はお前らさえいなければ、こんなに身を粉にして働かずに済んでいるんだ!! だというのにお前一人遊びほうけて……このあばずれめが!」
「なんですって……!?」
「お父さん! お母さん!」
 私の叫びに、私の両親はようやく我に返ったらしかった。二人同時、弾かれたように私を見る。私は泣きそうになりながら、部屋の様子を一瞥した。
 広めのリビングダイニングに置かれたテーブルには、食事の用意がなされている。ただ、そのうち一皿分の中身が、テーブルクロスの上にぶちまけられていた。
 フローリングの床の上に倒れた観葉植物の鉢は割れている。先ほどの、陶器の破砕音はきっとこれだ。椅子もいくつか倒れていて、目を覆いたくなるような有様だった。
 父と母に、なんと言うべきか私が思案していると、父が震える声で呻いた。
「……誰だ、その男は?」
「え?」
 背後を振り返ると、そこには妹尾先輩がいた。先輩の冷めた目と視線がかち合う。静かに目を伏せた先輩は、床にとん、と、何かを置いた。
 私が、道路に置き去りにしてきた鞄だった。
「あの状況で放っておくなんて、出来るはずがない」
 先輩は淡々と言った。
 私は先輩の言葉に、ぶわっと、涙が溢れてくるのを感じていた。
 あぁ。
 巻き込んで、しまった。
 ううん。最初から巻きこんでしまっているわけだけど。
 ただ、先輩は何も知らない状態で、終わって欲しかった。
 それでも私は止まれない。
 私、大人になるって、決めたんだもの。
 私は先輩の手を握り締めて、両親に向かい合いながら言った。
「私、この人と付き合ってるの」
 震える私の手を、先輩が握り返してくれる。
 あぁ、ありがとう先輩。きっと、驚いているに違いないのに。
「この人が好きなの。愛してるの。だから、私、この町を離れたくない」
 両親は驚いている。驚くのも無理もない。今まで、男の影どころか、友人すら紹介されたことのない親だもの。
 こんな喧嘩してばかりの親に、友達なんて、紹介したくもなかったけれど。
「私、お父さんもお母さんも要らない。別れるなら勝手に別れて」
 私の声は裏返って震えていた。本当は、泣き崩れてしまいたかった。けれど先輩の手の心地よい冷たさが、悲しみに火照った身体を意識させ、精神を繋ぎ止めた。
 がんばって。私。
「私も――トモも、あんたたちなんて要らない。私たち、二人で、この町で生きていく。私たち、十分大人よ。出て行くなら勝手に出て行って。別れて。私たち、どちらにも引き取られない」
 私は叫んだ。
「大人の都合で、もうこれ以上、振り回すのは、やめてよっっっ!!!!!」


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