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だから奴は甘えたなんだ


 夕方になると、朝食用のパンを買いに来る主婦が増えてくる。彼女らの相手をし、ようやく客が途切れたと思った頃合に、珍しい人物をみちるは認めた。
「音羽さん」
 妹尾音羽は叶のすぐ上の兄だが、既に社会人として都心部で働いている。滅多にこちらに戻ってこない彼を、みちるは久方ぶりに見た。
「大変そうだな」
 彼は叶と異なり愛想笑いのひとつも浮かべない。冷ややかな美貌は、しかしみちるにとってはさほど不快感を覚えるものでもなかった。みちるも、愛想笑いを浮かべずにすむからだ。
「そうでもないですよ。今日はまだお客さん少ないほうなんです」
「ミニバケットあるか? あとチュロス」
「ありますよー。何本にします?」
「三本ずつ」
「わかりました。ユトさんは帰ってきてるんですか?」
「いいや? 今日は俺だけだ。こちらに出張だった」
「あぁ、そうですか」
 出張帰りだという彼は、家に寄らずそのままこちらにきたのかスーツ姿で、手には仕事用と思しき革鞄を提げている。焼きたてのミニバケットを差し出すと、彼は一本引き抜いてそれを口にくわえた。
「いくら?」
「五百七十円です。……今食べちゃうんですか?」
「コレは俺の晩飯だからな」
「お土産じゃないんですね?」
「一本は、土産」
「後は?」
「晩飯」
「野菜とって下さいよ」
「じゃぁそこの野菜ジュースもくれ」
「九十五円です。……叶といい、結構めんどくさがりですね。妹尾家の人って」
「どういう意味だ?」
 みちるは野菜ジュースのパックを、冷めたチュロスの紙袋が入ったビニール袋の中に詰めて言った。
「放置しておくと、奴、毎日カップラーメンばっかですよ」
 スポーツをしているんだから、もう少し健康管理というか、身体作りにも気をつければいいのに。
 ぶつくさみちるが呟くと、音羽が眉をひそめた。
「よく知ってるな」
「えぇ。奴の食事管理してんの、最近私ですから」
 忙しいのに何をやらせるのだといつも思う。最初は昼食だけだったのに、最近は夕食もたまに作る。材料費をもらっているとはいえ、頼まれれば断れない自分の性格に呆れのため息がでるほどだ。
「甘えてるんだろう」
「いいですね! 末っ子は甘え上手で! 奴の場合これははっきり言って嫌がらせですよ嫌がらせ……ちょっと音羽さんそこ笑うところじゃないですから」
「いや笑うところだろ」
「何で!?」
「あぁこういう駆け引きに、多分俺たちは弱いんだろうと」
「……はぁ?」
 何を言ってるんだかさっぱりだ。ただ叶の兄はくすくすとおかしそうに笑っている。滅多に笑わない人だから、みちるの対応が相当ツボにはまったのだろうということは推測できる、が。
 何か、釈然としない感じだ。
「君は甘やかすのが上手なんだろう」
「叶の怠けは私のせいっていうことですかとどのつまり」
「そうかもしれないそうでないのかもしれない」
「どっちですか」
「できれば甘やかしておいて欲しい。俺たちが、あいつに出来なかった代わりに」
「ご兄弟の失敗を他人である私に押し付けないで下さい。いい迷惑です」
「本当に迷惑?」
「……迷惑ですよ」
 叶のお陰で毎日弁当の具について試行錯誤しなければならなくなった。あれで好き嫌いが多いのだ。夕食についても考えなければならなくなった。弁当はほんのついで程度だったが――あれも、最初は奈々子の為に作ったのであって、叶の為では決してなかった――段々豪華になってきていると思う。仕事で疲れた身体に鞭打って弁当の下ごしらえやら、合間を縫ってつくる夕食やら。
 まったく、なんでこんなことをしなければならないのだ。奴の下僕でもなんでもあるまいし。
 それでも、食べて美味しいと笑われれば、やはり嬉しい。今日の弁当は? とこっそり耳打ちされる。答える。破顔した奴を見ると、やはり嬉しい。
 だから作っているのだろう。
 そこには、自分の存在意義がある。
「迷惑ですよ」
 そんなふうに呟いてみても。
 本当に迷惑なのか否か。
 それは、みちるですら、もう判らない。
「まぁいいか」
 音羽はミニバケットをひとつ平らげて、その指先を舐め取りながら言った。
「それでもやっぱり嫌いなものはひとつぐらいはいれてやったほうがいいと思うぞ。弁当には」
「あ? そうですか? やっぱり?」
 じゃぁひとつといわずに三つぐらいは入れてやろう。そういえば、最近奴への嫌がらせが手ぬるかったとみちるは思い返した。
「奴の好き嫌いの多さは異常だ」
 音羽は言った。叶の上の兄たちは、あまり好き嫌いないと聞いている。
「今のうちに躾けておいてくれ」
「なんで私が躾を担当しなきゃならないんですか」
「俺たちには無理だから」
 大体、あいつの好き嫌いなんか把握していないと肩をすくめる音羽に、みちるは嘆息した。
「私にも無理ですよ」
 つまるところ、あの美少年は非常に甘えたでわがままなのだ。
「あ、それから林檎ジュース一本追加」
「ん? 家で飲むんですか?」
「叶への土産」
「なるほど」
 そしてそれは多分、こんな感じで上の兄たちに甘やかされている結果なのだろうとみちるは思った。


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