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影の幸せを祈っていた 2


「私、転校することに、なったので」
 その挨拶に来たのだと、雪野さんは言った。
「そう、残念だね」
 私は言った。本心からだった。
 雪野さんは随分やつれたように見えた。もともと色白かった肌は透明度を増して、青白くすらある。けれど着ている薄桃色のワンピースがよく似合って、華やかを装っていた。
 叶と付き合いだしてから、本当に可愛らしくなった雪野さん。そんな雪野さん、私は決して嫌いではない。叶と並んで笑う彼女は幸せそうで、見てるこっちまで幸せになる。
 だから、私には彼女を妬んで、いじめ抜こうなんていうほかの女の子たちの気持ちが正直言って判らなかった。
 ふと、私は思い立った。転校するなどと、春休みに入る前に挨拶はしなかった。クラスメイトたちに知られたくなかったんだろう。
 私にも、わざわざ報告する義理はないはずだ。私たちはクラスメイトではあったけれど、決して友達としての関係ではなかった。
「なんで、わざわざ私に?」
 雪野さんは即答した。
「叶君と私のことを、本当に、おめでとうって言ってくれたの、散里さんだけだったんです」
 かなえくん、という響きは。
 どこか、こそばゆかった。
「だって、本心だったから」
 本当に、祝福したかった。
 あの、叶が、ひとりぼっちでなくなったことを。
 それは、いつか私も一人ぼっちでなくなるかな、なんていう、自分本位な希望からっていうこともあったけれど。
 でも、なんだか自分のことのように嬉しいことだったんだ。
「私、わけがわからなくて」
 急に、表情を歪め始めた彼女に、私は慌てた。
「だ、大丈夫?」
 雪野さんは下唇を噛み締めて、小さくかぶりを振ると、震えた声で話を続けた。
「いじめが……酷くなって、それでも叶君が一緒にいてくれればいいと思ってたんです」
「……うん」
 一緒にいたいと願っていたのは叶も同じだ。
 それでも、自分が一緒にいることに、意味があるのか彼は悩んでいて、そこらへんは同情できるのに、その鬱屈を私に向ける辺りは子供だ。
「なのに、突然叶君は変わってしまって。口汚く罵って、別れようって」
「うん」
「散里さん」
 彼女に名前を呼ばれて、私は改めて彼女を見つめなおした。雪野さんは私を正面から見て微笑んだ。
「教えて欲しいんです、散里さん。叶君が、私と、無理やり別れたのは、私を、守るためだったんですよね?」
 どう、答えるべきか。
 私はほんの少しだけ迷ったけれど、正直に頷いた。
「うん」
 そう。
 あれは守るためだった。
 よかった、本人は、きちんとわかってたのね。
 なら、よかった。
 それだけで、叶は救われる。
 ……ちょっとまって。
 というか、なんでそこを私に確認しようなんて思ったんだこの人は。
「なんで私がそんな理由を知っていると思うの?」
 雪野さんは微笑んだ。
「叶君が、名前で呼ぶ人は、散里さんだけだったからです」
 私はぎょっとした。叶が私を呼び捨てすることは知っている。喧嘩のとき、そして、彼が家族に対して私のことを漏らすとき。けれど学校で、私のことを名前で呼ぶことはありえない。私たちは、学校では赤の他人同然だ。
 叶の奴、本当に、浮かれてたな。私のことを言うだなんて。
「幼馴染なんだって、言ってました。素敵な関係ですね」
「取っ組みあいの喧嘩してばかりの関係が、素敵って呼べるんならね」
 私は取り繕うことを諦めて、苦々しく呻いた。
「取っ組み合い……」
「顔を付き合わせれば喧嘩腰、うっかりすれば取っ組み合い。そんな関係は素敵って呼ばない」
 おきざりに、された、もの同士。
 ひとりぼっちな、もの同士。
 傷の暴きあいをするような、喧嘩をしてばかりの関係は、健全なんかじゃない。
 私は、彼女に微笑みかけた。
「……貴方と、叶の関係こそ、見ていてとても素敵だった。雪野さん」
 見ていて、素敵だった。
 叶の部活が終わるのを、待ってる雪野さんが、とても幸せそうで。
 放課後、並んで歩く貴方たちが。
 素敵だった。
「……散里さんって、大人ですね。中学生に、みえない」
「あーよくいわれるけど……そんなことはないよ」
「羨ましいな。そんなふうに、なりたいな」
「そんなこと、ないんだってば」
 本当は、小学生以下なんだ。人付き合いのスキルとか。
 だから、羨ましかった。
 クラスに、自然に溶け込んでいけた、雪野さんが。
 大人っぽくなんか、なりたくなんかない。
 本当は、雪野さんみたいに、はにかんだように笑って。
 笑って。
 皆と付き合えたらって、思うんだ。でも私にはそれが上手くできなくて。
 できなくて。
 本当に。
 私はそこまで、大人なんかじゃない。
 叶と並ぶ貴方をみて、幸せに思うと同時に、私一人、ひとりぼっちのまままた置き去りにされたようで。
 少し妬ましかった。
「私は、雪野さんが羨ましかった」
 私は雪野さんに言った。
「本当に」
 そして。
「多分みんなも、羨ましかっただけだと思うんだ。雪野さんが、素敵で」
 叶を奪われたことの、整理がつくほど、皆、大人じゃなかっただけだと思うんだ。
 理性で制御できるほど、大人じゃなかっただけだと、思うんだ。
「だから、次の学校では、人気者になるよ、雪野さん」
 雪野さんは少し驚いたように目を開いて、それからすぐに、はにかんで笑った。
「私、最後に散里さんと話せて、よかった」
 それから彼女は、頭を丁寧に下げたのだ。
「ありがとう」


 そうやって雪野の家はどこかに引っ越して、学校も変わり、みんなの記憶から消えていった。
 学年が変わった叶は昔通り皆の人気者だ――上っ面だけの。
 高校受験も控えて、私たちの周囲は慌しくなった。
 叶は三年になってからも、そして高校になってからも、ちょくちょく女の子とお付合いはしてるみたいだったけれど、私にはあまり幸せそうに見えなかった。あぁ、やっぱり誰にでもお優しい叶君を演じるために、お付き合いしてあげてるのね、みたいな感じが付きまとう。
 そんなお付き合いはすぐに破局する。叶も、けっこうどうでもいいって思ってるみたいだ。私は、ちょっとは真剣に相手になってあげなよ、と、いらぬ口をだして、そして喧嘩する。
 でもなんかそんな喧嘩がいつも続くっていうことに、あいつも私と変わらず一人ぼっちのままなのだということに、安堵している自分に最近気付き始めて自己嫌悪。
 そんなとき、私は私は今でも思い出すんだ。
 とても、醜い形で終わってしまった。そんな形を選んででも、叶が守ろうとしていた、ただ一度の、本当の恋の、相手を。
 彼らが放課後並んで歩き出すときにできていた、寄り添うような幸せの影の形を。
 あのときばかりは、私は本当に、あの影の、幸せばかりを祈っていたのだ。


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