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影の幸せを祈っていた 1


 私は知っている。
 あいつが一度だけ、本当に好きになった恋愛。


 中学二年の頃だったと思う。叶のほうから告白をして、付き合い始めた子がいる。叶はあの人懐こさと容貌から、女の子に告白されて付き合い始めることは多々あっても、彼自身から告白した子なんてそれまで皆無だった。
 女の子の名前は確か、雪野咲都子さん。
 雪野さんは、綺麗な黒髪と、抜けるような白い肌を持っていた。よく言えば物静か。悪く言えば陰気。夏の蒸暑い日でも、彼女が教室にいると、その一角が冷えたような感じがする。苗字のこともあって、男子からは雪女という仇名がつけられて、よくからかわれていた。
 そんな彼女が何時からか、微笑むようになって、人とも少しずつ交わり始めた。何のきっかけか私は聞いていない。
 けれど確かなのはひとつ。叶が、彼女に絡むようになったのだ。
 最初は叶が手引きして、人に混じるようになった。雪野さんは実は単に人と親しくなるきっかけを見つけるのが恐ろしくへたくそなだけで、まるで少女マンガに出てくる主人公みたいな純情で優しい人だったから、クラスの面々ともすぐ馴染んだ。
 断言してもいい。
 その馴染み方は、委員長としてしかめっ面している私よりもはるかに自然だった。


「散里さん、コレ、どこにもって行けばいいんですか?」
 掃除の班が一緒になったのはこのとき一回だけだ。雪野さんは女の私から見てもどきどきするぐらい大きな目を輝かせて、集め終わった落ち葉を運ぶ場所を尋ねてきた。私は黒いビニール袋を広げて、この中につっこんで下さいと、彼女に言った。
「後で私が収集場に持っていくから。これ入れ終わったら雪野さんは戻っていいよ」
「え? いや! そんなの! 私が持っていきます!」
「……えーっと、いや……持っていってくれるっていうのならお願いするけど、そんな恐縮しなくてもいいよ?」
「めめめ、めっそうも!」
「ついでにいうと、敬語も使ってくれなくていいから。クラスメイトだし」
「……わ、わかりました?」
「……敬語が素なら、まぁいいけど」
 傍目で見ているよりも、雪野さんは随分とずれた子だった。叶がちょっかいかけたくなる理由も判るような気がする。
 二人、黙って軍手をはめた手で落ち葉をゴミ袋の中に放りこむ。がさがさという音をさせながら、ふと、雪野さんが言った。
「散里さんは、凄いですね」
「……何が?」
 唐突に凄いといわれる理由がわからなくて、私は首をかしげた。
「委員長として、こうやって、たくさん人の役に立てていて」
「人の役に立ってるのかどうかはしらないけどね」
「でも、たくさんの役をこなして……私に、普通に話しかけてくれた初めての人は、実は妹尾君じゃなくて、散里さんだったんですよ?」
 私は面を上げて、はにかんで笑う雪野さんを見た。この人はこんな風に笑うのだ。彼女の微笑は、とても柔らかくて、魅力的だった。
 捻くれものの私は答える。
「委員長は、私にとって居場所を与えてくれるからやってるだけで、人の役に立ちたいなんて、思ったこともないよ。雪野さんに話しかけたときのことは、ごめん、覚えてない」
 いつ、話しかけたっけ。
 多分、新学年に上がったときにだろうな。
 雪野さんは、私の言葉に少し傷ついた顔をした。再び沈黙して、落ち葉を拾い上げた。全てゴミ袋に入れ終わったとき、雪野さんは口を縛ったビニール袋を握って、私に言った。
「私、妹尾君に、付き合ってくださいって、言われたんです……」
 その言葉に私は驚かなかった。近々、叶はそういうだろうと思っていたのだ。
「どうしたら、いいんでしょうか……?」
 そう、尋ねてくる彼女に私は思わず嗤った。どうしたもこうしたもないだろうに。
「雪野さんは、妹尾君が好きなの?」
 雪野さんは、頬を林檎のように紅潮させて、頷いた。頭から湯気が出る勢いだ。私は、微笑ましさに笑って言った。
「じゃぁ、好きですって、言ってあげればいいと思うよ」
「そ、そうですか?」
「うん」
 きっと、叶は喜ぶだろう。
 彼は、一人ではなくなるのだ。
 それを喜ばしく思う瞬間、つきりとした痛みが胸を刺した。何の痛みか、私にはわからなかったが、予想することはできた。
 もうこれで、一人ぽっちは私だけなのだという、悔しさからの痛み。
 ただ、叶が一人でなくなるということは、とてもよいことのように思えた。
 素直に、祝福できた。
「おめでとう」
 私は微笑んで雪野さんにそう言った。雪野さんは顔を真っ赤にしたまま俯き、ぼそぼそとした口調で有難うと返してきた。


 それからすぐに、雪野さんと叶が付き合い始めたという噂が広まった。幸福なカップルの出来上がり。叶の部活が終わるまで、花壇の世話をしながら待つ雪野さんの姿を、私は眺め、お幸せに、と思った。

 けれど、物語みたいに、ことは上手くいかない。


 叶と雪野さんは間もなく別れた。理由は、嫉妬に駆られた女子たちからの雪野さんへの陰湿ないじめ。人付き合いの浅い私には声がかからなかったみたいだけれど、雪野さんのいじめには、彼女の友達も荷担していたらしい。女の嫉妬って怖い。
 それと同時に、叶の苛立ちの矛先が私に向けられて、私は酷く迷惑だった。荒れている彼を上手に落ち着かせられるのは、彼の姉貴分であるユトさんぐらいだ。私と叶はいつもにも増して喧嘩を繰り返して――私たちの喧嘩は、口喧嘩に終わらず、時々取っ組み合いじみたものにも発展するものだから、体力を使う――私の疲弊具合に、店長たちが心配するぐらいだった。


 学年が変わる寸前のことだ。パン屋で店番をしていると、私服姿の雪野さんが姿を現した。
「こんにちは、散里さん」
「こんにちは。いらっしゃい」
 彼女が私が居候しているパン屋までパンを買いに来るなんて、珍しいことだった。けれど、初めてではない。
 叶に連れられた彼女が、一度だけ買いに来ていて、その時また来ます、と繰り返していたから、ここにいても何の問題もない。私はごく普通に、お客相手の決まり文句を口にしていた。
「何にしようか? どんなパンがいい?」
 あ、ちなみに、うちのパン屋はお肉屋さんみたいに、カウンターがあって、そこのショーケースに並べられてるパンからお客さんが選ぶタイプ。なので、パンの種類はとっても少ない。
「えーと、そういうことじゃ、ないんです」
 彼女は困ったように笑って、ちょっと、出て来れますか、と言う。私は迷った後、奥の工房にいる今田さんと店番をかわってもらい、エプロンを外したのだった。


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