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さいごのしあい


 ぐちゃぐちゃだと思った。

 その日は朝から雲行きがよくなかった。雨がぽつぽつ降り出したのは、試合のハーフタイムを過ぎてからだとマネージャーの水田さんが言った。試合の方向はあまりよろしくなく、このままいけば確実にうちの学校の負けだ。
 練習試合の時はパン屋の仕事優先だけれど、毎年ある全国大会への地区予選は見ることにしていた。きっかけは彼の同居人が東京へ行ってしまってからだったと思う。叶が姉としてか、はたまた初恋の相手としてか、なんにせよ、酷く慕っている人。私の代わりに、叶君の試合、見てあげて。そんな風に彼女は言って、彼女の代打ということで、みちるは叶の試合を見に行っていたのだ。
 パン屋の仕事を終えて試合会場にいこうとしたら、偶然仕事で通りかかった叶の兄が車で送ってくれることになった。試合会場についたときには、既に霧雨が降っていた。宝石店の仕事に戻っていった叶の兄に手を振って、みちるは試合会場にたどり着き、スタンドの柵を握りながら、思ったのだ――ぐちゃぐちゃだ。
 地区予選の会場は、芝生のグラウンドなどという大層なものではない。土がむき出しになった、ごく普通の市民グラウンド。降りしきる雨のために足元は粘土のようで、走り回る選手たちも泥まみれだった。サッカーボールは泥にとられて弾まず、一度地面に落ちたらその場で回転しながら次の誰かを待っている。パスが上手く繋がらないようで、地面に落ちたそれを奪い合うために少年たちが肩をぶつけ合う。その拍子に弾き飛ばされては泥の中に突っ込んで――。
 みちるはスタンドを見回した。決勝戦ということもあって、観客席には雨だというのに大勢の人が詰めている。いくつか女子の集団もあって……これは、叶目当ての女子だ。十中八九。誰もが涙ぐんで、息を詰めて局面を見守っている。
 うちの学校にとって、二点差の劣勢。相手チームはこの点差を守りたいようだ。こちら側のチームは、攻撃を繰り返すが、雨に阻まれ、なかなか点差を詰められないでいる。
「負けちゃうね」
「駄目だね」
「かわいそう」
 そんな応援席の囁きを耳にしながら、みちるは下唇をかんでフィールドを見つめた。泥まみれの中で走り回る少年もまた、足を止めかけている。
(叶)
 彼は最後までしぶとかったが、周囲の陰鬱さに感化されるように、やがてその動きを緩やかに止めていった。
(駄目だ)
 止まるな。
 止まったら終わる。
 みちるは彼が非常に熱心にサッカーというスポーツに取り組んでいることを知っているし、それが彼の性格からしていって、かなり特異であるということも理解していた。今年は最終学年。大学の受験もあるので、負ければ、この試合が事実上の引退試合だ。
 大学の受験の為に、サッカーを続けるつもりもないと、叶は言っていた。
 本当に。
 本当に、これが最後なのだ。
 みちるは柵を握り締めた。
 あぁ叶の。
 足が。
 止ま。
「かーなーえー!!!!」
 叶の面がこちらを向いた。驚愕した眼差しに、みちるのほうが驚いてしまう。なぜ、彼はこちらを見ているのだろう。なぜ、彼はそんな眼差しでこちらを見ているのだろう。
 全てはこの腹の奥底から搾り出されるようにして響く声のせいなのだと、みちるが自覚したのは、続く言葉を吐くために息を深く吸い込んだときのことだ。
「走れぇええぇえぇぇ!!!!!!!」
 その叫びに驚いていたのはみちるだけではない。周囲にいた女生徒たちもだ。突き刺さるような彼女の視線は、すぐに消えた。再び走り出し、ボールを蹴って、ゴールを決めた叶に、彼女たちは歓声を上げた。点差が詰まったことに皆活気づいて、再び走り出す。叶はもうみちるを見なかったし、みちるもその場からすごすごと去って、家族連れの観客に混じりながら、そっと試合の行く末を追った。


 家に帰ると鍵が開いていて、一瞬父親が戻ってきているのかと思った。仕事で多忙を極める父は、滅多に家によりつかない。時折、不意打ちのように戻ってくるだけだ。
 しかし玄関に並んでいたのは見覚えのある女物の靴だけだった。叶は顔をしかめてそっと上がりかまちを踏んだ。廊下を行き、奥左手から台所に入る。予想通りの後姿を見つけて、叶は囁いた。
「泥棒」
 彼女は、文字通り飛び跳ねるようにしてこちらを振り向いた。そして少々ばつの悪そうな表情で、目を伏せたのだ。
「勝手にあがりこんで、悪かったとは思ってる」
「どうやって入ったの?」
「アンタが去年、私を拉致った時の鍵」
「あー道理でみつかんないと思った。僕の鍵」
 去年の秋のことだ。無理やり彼女をこの家に引きずり込み、色々あって、鍵を貸した。すっかり返してもらうことを忘れていた。叶が今使っている鍵は、母の鍵だ。もう、死んだ母親の。
「何してんの?」
「ご飯作ってる」
「祝いか何か?」
「んーん。ただ作りたかっただけ」
 みちるの料理は、とても美味だ。温かい家庭料理。
「あんた、冷蔵庫の中空っぽなんだけど」
「だって台所なんてカップめん作るのにしか使わないし」
「もー毎度のことだけど、ユトさんが泣くわよ」
「毎回泣かれてるじゃん。帰省するたびに空っぽの冷蔵庫見て泣くんだよユトちゃん」
「いつも思うけど……可哀想ユトさん」
「あのさー」
 叶は鞄を床に落としながら言った。
「僕、負けたんだけど」
「知ってるよ」
 みちるが何か汁物の味見をしながら即答する。叶は嘆息して、彼女に歩み寄った。きしりと鳴る、台所の古い床板。
「私の声聞こえたの?」
「聞こえた」
「思わず走った?」
「走れた。ありがと」
「たいしたことはしてないけど……どういたしまして?」
「まぁ負けたけど」
「しゃぁないじゃない。アンタはよく頑張ってたよ」
「僕一人なら勝てたかも」
「そうだね万能君。勝手にほざいてなさいよ。でも一人では出来ないものだから、サッカーを選んだんだって、あんたそういってたじゃない」
「……うん」
 叶の兄弟は皆叶と同じく恐ろしく見目がよく、そして万能だった。何でもできた。勉学からスポーツの類まで。他人が何年も掛かるようなことが即座に出来てしまう。
 だから、叶の兄弟は皆、伴侶を見つけるまで長い間孤独だった。自分は嫌だった。
 一人でしない競技ならなんでもいいと思って始めたのが、サッカーだった。
 少女の背後に立って、こつりと、額を彼女の肩に預ける。少女は身じろぎひとつしなかった。ただ、小さな音がした。かちりと、コンロの火を止める音。
「負けた」
「うん」
「終わった」
「うん」
「終わってしまった。負けで」
「そうだね」
 みちるは同意する。会場の片隅で、結局点差をもう一度広げられて、無様な負け方をした自分たちを、彼女は見ていたのだろう。
「いいじゃない。アンタ、負けの経験がなさすぎ。一回ぐらい人生で大負けしたって罰は当たらないよ」
「慰めようとかいう心はないのか」
「ない」
「あー相変わらず僕に厳しいことでございますことで」
「ま、失礼な。でもこうやって、放っておけばカップ麺でお過ごしになる妹尾叶様の為に、今日は催促されずともご馳走つくりに来てるじゃない」
 面を上げる。少女と目が合う。彼女は笑った。叶の、泥だらけの頬に触れて。
「お疲れ様」
「……うん」
 叶は頷いて、瞼を閉じた。みちるの腕が柔らかく叶の頭を抱えた。あぁ悔しい。畜生。ぶちぶち漏らす叶の頭をみちるは撫でる。情けなくて涙が出て、ちくしょう、と呻いたら、かっこよかったよと、珍しく彼女から零れ出た褒め言葉をきいた。


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