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あぁ、大事なのかしらって 2


 翌週の日曜日にあった練習試合に、いつもどおり昼食を携えて、散里という先輩が現れた。人数分の昼食のつまったダンボールを美香に引き渡す彼女の手を、美香は見た。ダンボールの汚れからか、すこし黒ずんだ指先だ。汚い手だと、美香は思った。
(この人が、本当に?)
 佳奈美の言葉が信じられない。散里という先輩はおしゃれのかけらもないめがねや、ただお下げにしただけの髪など、あまりにも頓着なさすぎる。確かに清潔感はあるけれど、今はくすんだ色のエプロンをしているせいで、なんとも垢抜けない。
 妹尾叶もクラスメイトとして散里に挨拶はしたが、それだけだった。彼はすぐに練習に戻った。散里も妹尾に話しかけるようなそぶりはない。挨拶をかわした。ただそれだけのようだった。
 秋だというのに、今日は夏が戻ってきたかのような暑さと日差しだった。監督と金額の精算について話していたらしい散里が、苦しそうに何度も額の汗を手でぬぐっている姿を、美香は見た。美香自身、帽子をかぶり、タオルを首に引っ掛け、水分を何度も補給しなければならなかった。まだ、試合前だというのに。
 相手のチームが到着し、ウォーミングアップを始める。美香の部のメンバーはいったん休憩のために引き上げてきた。妹尾は、その中で先陣を切っている。
 彼はベンチから無造作にスポーツタオルを取り上げた。
 そして、まるで息をするかのような自然さで、彼はそれを散里の頭に掛けたのだ。
 散里は、監督と話を続けている。妹尾は何も言わず、美香のもとに歩いてくる。
「麻生ちゃん、水田さん、のど乾いたー!」
 彼はいつもと同じ、満面の笑顔で、美香にお茶をねだる。美香は面食らったまま彼の要望に従って、やかんの麦茶をプラスチックのコップに注いで手渡した。彼のほかにも、麦茶を待っているメンバーたち。佳奈美は自分で汲んで飲みなさいと、お茶をねだる彼らを叱咤していた。
 美香は、ただ、呆然と散里の後姿を見ていた。当然のように、妹尾叶のタオルを日よけがわりにしている、彼女の背中。
 練習試合がそろそろ始まろうかという刻限だ。選手たちは監督とミーティングをしている。一歩離れてその様子を見守っていた美香は、そっとささやかれた声に驚愕した。
「水田さん」
 散里だ。彼女が美香に声をかけたことも驚きなら、彼女が美香の名前を把握していたことも驚きだった。
「ちょっと……」
 手招きされ、美香は恐る恐る散里の元へ歩み寄った。彼女にこんな風に呼びつけられるのは、無論はじめてのことだった。
「なんですか?」
「えっと…差し出がましいんだけど、水田さんがね」
「はい」
「妹尾君に、『左足は大丈夫ですか?』って、きいてみて」
「……左、あし……?」
 散里は頷いた。
 いったい、何のことだ。
 美香が理由を尋ねるよりも先に、散里が礼を取った。
「それじゃぁ、私は帰ります。また、ごひいきに」
「あの……!」
 引き止める、間もない。
 散里は、製パン所の名前がかかれた原付にのってさっさと帰ってしまった。
 何か、釈然としない。
 けれど、ひとまず散里に言われたとおりに、美香は妹尾に尋ねてみた。
 左足は、大丈夫かと。
 妹尾は笑った。
「水田さんには、かなわないなぁ! ばれちゃった?」
「え?」
「おい、妹尾、どうしたんだよ?」
「えーっと、実は足、さっきちょっとひねったみたいで……」
「バカかお前はー! 水田! シップ!」
「え? あ、はい」
 監督の指示に従い、救急場所に取り付いた美香は、シップを探しながら混乱する脳内の整理に努めていた。
(いつ、ひねったの……?)
 練習前、妹尾の足は何もなかった。だが確かに、ソックスを脱いだ妹尾の左足は、ほんのわずかに赤くなっている。
 大丈夫、ただの捻挫――でも、この練習試合は降板したほうが――前半は様子をみよう、ひとまず、冷やして……。
 監督やメンバーの会話が途切れ途切れに耳に入る。麻生が凍りを用意している。だれかが、お手柄だな、と美香に声をかける。
(ちがう)
 私は、気付かなかった。
(ちがうの)
 何も、気付かなかった。
 なのに、気付いた。
 あの人。
 散里は、気付いたのだ。監督と会話していただけだった。その顔が、フィールドのほうへ向いたことなどただ一度も無い。
 なのに、視界の中に、妹尾を収め、そして気付いたのだ。ほんのわずかにひねった左足。歩き方の不自然さ。そういったものに、気付いた。
 そして妹尾も。
 彼だってウォーミングアップにいそしんでいた。練習に赴く彼の顔は真剣そのものだった。こちらに視線をよこしたことなど皆無だ。美香は、断言できる。
 なのに、気付いた。
 彼は、散里が暑さに閉口していたことに、気付いた。当然の様に、彼女に影を作るべく スポーツタオルを頭にかぶせた。
 佳奈美の言葉が蘇る。
『あぁ、大事なんじゃ、ないかしらって』
 大事、なのだ。
 美香は記憶力を総動員して、今までの彼らを思い返した。どう考えても、関係があるだなんて思えない。彼らの会話している姿をみたことがある。それでもそこにはひとかけらの甘さも感じられなかった。恋人同士なら、かならずあるだろうソレを、美香は感じることができなかった。
 けれど、大事なのだろう。佳奈美の言う意味が今わかった。彼らは関係を隠しているわけではない。恋人として甘えるわけでもない。ただ、こんな風に、自然に相手を気遣う関係も、あるのだと思った。


 その後も、妹尾と散里は相変わらず。やはり恋人だなんて思えない。二人とも名言しない。ただ、知り合いであることは、問いただせば隠さなかった。二人が、幼馴染であることも、尋ねれば簡単に教えてくれる。
 恋人なのかといえばそうではない。友人でもない。二人の関係がどんなものなのか、本人たちですらよくわかっていないらしい。
 やがて美香はクラスメイトの少年に告白され、付き合うようになった。相手のことをよく見ているつもりだけれど、相手の心中を読みきることなんてできない。一瞥しただけで相手が疲れているか怪我をしているかなど、わかるはずもない。
 お互いの気の回らなさのせいで喧嘩になって、でもやっぱり好きだから仲直りした、デートの帰り。
 ただ、並んで歩いているだけの妹尾と散里を見た。
 手を繋いでいるわけでもない。会話しているわけでもない。影を並べているだけだ。けれど妹尾は散里と同じ歩幅で、車道側を歩いている。
 なんだか、不思議な絵だった。
 影を並べて歩いている。ともすれば単に方向が同じだけとでもすまされそうな距離をとっているのに、お互いの存在を許しあって、そこに二人でいることが、わかるのだ。
 わかるのだ。
 あぁ、大事なんだろう、と。
 その距離。その空気。その空間。
 同じ空間を共有しているだけの関係。
 そんな関係もあるのだと、夕暮れの道を行く二つの影を眺めながら、美香は思った。


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