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さようならまた会いましょう


「だから、そんな風だから凡ミスするんだよ! そこはちゃんと検算しろっていったろ!?」
「したわよ! したけど間違えちゃったの! 仕方がないじゃない!」
「したのに間違えるなんて、救えない!」
「なによ! あんただって、こっちの構文訳、ものすごく間違ってるじゃない!」
「そっちは勘違いしただけだよ!」
「勘違いしただけでこんな訳になんの!? すっごく単純な構文だったじゃない! 人の間違い笑う前に、自分の勘違いの多さどうにかしなさいよ!」
 昼休み。
 弁当を食べながら宿題を膝に乗せて、お互いの宿題を確認し合っている。
 とはいっても、今アタシの目の前にいる二人は、宿題の確認というよりも、お互いのミスをいかに指摘できるかということに夢中になっているようだった。口論はますます白熱し、あーでもないこーでもないと、弁当を食べることそっちのけで言い合っている。
 いつもの、痴話喧嘩だ。
 なんだか、馬鹿らしくなった。
 つか、こいつらの仲に気を揉むだけ、本気無駄だということがよくわかった。

 アタシ、佐々木奈々子は心配していた。ここ三週間。みちると叶の間で、まったく目も合わさない、口も利かない状態が続いていたからだ。二人とも血の気の失せた様子でふらふらしてたし――特に、みちるは深刻だった。目の前でいつか倒れるんじゃないかとひやひやしたもんだ。
 叶もなんだか怖い雰囲気バリバリで、あいつの仲のいい友人たちも、叶から距離を置こうとしたぐらいだった。
 本気で心配した。終わるんじゃないかと思ったんだ。こいつらの関係が。
 ところがだ。
 四週間目に突入するかと思いきや、アタシの心配はそこでぷちっとご無用になった。
 まず、夜中にみちるがメールを寄越してきた。明日はきちんとお弁当作るよ。そんな内容のメールだ。なんで夜中に突然そんなことをとか思ったが、ありがとと返信した気がする。弁当作れるぐらい多少元気になったのなら、喜ばしかったからだ。
 翌日、アタシは度肝を抜かれたね。教室で、叶がクラスメイトを装い、アタシとみちるに普通に挨拶をしたからだ。みちるもそしらぬ風に、おはよーと返して、すたすた自分の席へと歩き出す。なんだなんだどうしたんだ。朝、突然みちるが「安定した」ような気がして驚いたっちゃぁ驚いたんだ。けれど叶まで「安定した」ように見えて、その上先週までのお互いガン無視が嘘みたいじゃないか。
 弁当、妹尾のやつは食べにくんのかとみちるに訊いたら、ふつーに頷かれた。それでこの痴話喧嘩。マジ、つきあってられんわ。ここ三週間すり減らしたアタシの精神、返してくれ。

「いた! 髪の毛ひっぱんないでよ!」
「弁当んなかに入りそうになってたんだよ! もうちょっときちんと括ってきなよ!」
「だって朝時間ないんだもん……!」
「だったら学校で括ればいいんじゃないか!」
「一応括ってるじゃない二つにして!」
「仕事んときみたいにもーちょっときちっとしろってこと!」
「お団子とか?」
「そう」

 宿題から、いつの間にかヘアスタイルの談義に変わってら。叶に指摘されて、みちるが一度髪を解いて、髪の毛を括りなおそうとする。確かに家へ彼女に会いに行けば、きちっとお団子にしてたり、遊びに行くときも色々髪の毛で遊んでんのに、みちるのやつ、学校に来るときはすげー無頓着だよな。まぁ、教師受けはいいだろうけど。

「うっ! ゴム絡まった!」
「まぬけ」
「うっさいなぁ……」
「ほら、こっちきて。座って」
「うん……」

 みちるの方に向き直った叶は、その膝の中にみちるを招き入れる。みちるもみちるで、叶に背を向け、奴の懐でちょこんと体育座りなんかしてる。
 ……。なんか。なんつーか。

「ねーまだ取れない?」
「ぶちって髪の毛抜けていいならすぐ取れるけど」
「えー! やめてよハゲになっちゃうじゃない!」
「あはは!」

 なんつーか、スキンシップ、多くねぇ?
 いや、前からこいつら、スキンシップ多いよなぁとか思ってたけど。髪の毛引っ張ったり、頬つねったり。
 叩いたり掴みかかったり……も、スキンシップに入んのかどうかはわかんないけど。
 それとは別の意味で。
 てか、こっちが赤面してきた。
 仕方ないんで、ストーブのところまで移動して温度を下げる。今このストーブ、切ってやっても絶対寒くない。絶対寒くないって、断言できるぞー。
 先週までの蒼白具合が嘘みたいに、なんだか二人とも幸せそうだから、アタシは昼食をさっさと切り上げて、先に教室に帰ることにした。
 あーあほくせー。


 アホ臭い。やってらんないとか思いつつ、それでもアタシはほっとしていた。だってさぁ、本当に見ていられなかったんだよ。見ているこっちが泣きたくなった。だから、丸く収まるならそれにこしたことはないんだ。
 みちると叶は、お互いに、ありとあらゆる動詞をぶつけて生きている。
 泣く、怒る、拗ねる、呆れる、笑う、逸らす、見つめる。
 離す、触れる、つねる、ひねる、握る、叩く、抱きしめる。
 互いに本気で喧嘩して、その一瞬後に、同じ顔して笑ってる。抱き合いながら笑い転げる。まるで、子供みたいに。
 そんな関係、滅多にお目にかかれない。そんな関係を見守っていける、アタシはきっと幸せだ。この世界に、そんな関係を作るスキマがあるんだって、人と人の付き合いって、素敵なものなんだって、アタシに思わせてくれる。その絆が壊れるかもしれないと思ったとき、アタシは本当に哀しかったから、今のあいつらは歓迎すべきだと思う。
 時々すっげー喧嘩に肝を冷やして……時々、甘ったるさに、砂吐きそうになるけど。


 そんな日が続き、期末考査も寸前になった日の図書室で、アタシはみちるに尋ねた。
「そういやさ」
「なぁに? 奈々子」
 みちるはノートに古典の単語を書き取っている。唇が時折かすかに動くのは、読み上げて覚えようとしているからだろう。
「みちる、妹尾の奴に、進路のこと言ったの?」
 何気ない問いだった。今日も昼に相変わらずの痴話喧嘩を繰り返す二人をのほほんと眺めていて、ふと思ったのだ。
 こいつら、いつまで、一緒にいるんだろうって。
 そう思ったとき、以前みちるから相談されていた進路の話を思い出したのだ。
 妹尾の義姉から提案されたっていう、フランス行きの話。
「――みちる?」
 みちるの呼吸が止まったことを感じて、アタシは上目遣いに彼女をみた。筆記の手を止めた彼女は、すこし青ざめている。アタシは慌てて身を起こした。
「みちる、どうし――」
「って……た」
「……へ?」
 みちるは冷や汗を流しながら、呻いた。
「わすれ、てた」

 つまるところ、色々ありすぎて、進路のことを完璧に失念していたっていうことだ。今年最後の進路相談は丁度みちると叶が口を利かなかった間にあって、終わってたから、二人の仲が修復されて落ち着いた後に、考え直すことがなかったっていうことだな。
 当然、叶の奴には告げていない。

「結局、みちるはどうしたいんだ?」
 帰り道、自転車を押しながらアタシはみちるに尋ねる。横を行くみちるは、ひどくゆっくりとした足取りだった。
「考えてるの」
 彼女は言った。
「朔さんの話を聞けば聞くほど、海外って怖いなって思うの。多分そこには、他人の家に入るっていうことと、似てるけど、また違ったしんどさが、あるんだろうなって。日本の専門行っても、学べることはたくさんあるだろうし」
「そうだなぁ。けっこう数あるもんなぁ。日本の専門もさ。店長はなんていってるんだ?」
「私の好きにしなさいって。大学にいってもいいよって。お金は出してあげるからって。でも、どれかは選びなさいって」
 日本の専門か、大学か、それともフランスか。
 いずれにせよ、あの家で働くという選択肢だけ、残されていないことを意味する。
 最初、みちるはどこにも進学せず、あの家で働きたがっていた。金銭的に負担をかけてしまうことに負い目があるんだろう。でも、店長はそれを許さない。それは家を追い出すとかいう意味じゃない。多分、みちるにみちるの人生を、歩いてほしいからだろう。
「みちるは、どれがいいんだよ?」
「全部面白そう」
「でもその中で一番面白そうなのは?」
「――私の周りって、核心言わないと納得してくれないひとが、凄く多い」
 みちるは小さく苦笑した。空を仰ぎ見ながら、呟く。
「一番、しんどそうなやつ」
「フランス行きか」
「……滅多にない、チャンスでしょ?」
 みちるは一度にこりと笑い、そして顔を曇らせた。
「……でも、そうすると、長い長い間、会えないなぁって思って」
「叶のことか?」
 アタシの問いに、みちるは答えない。ただ、小さく、笑っただけだ。
「置き去りにしないでって、傍にいてって、私が頼んだのに。今度は私が、叶を置いていこうとしている」
 みちるの声は暗い。そこには、まだ膿んだ傷の気配がある。
 アタシは、みちると叶の間に何があったのかは知らない。けれど、二人のトラウマについてなら知っている。この二人は、誰かにおいていかれることに、深い傷を持っている。
 それでも――……。
「アタシ、それは違うと思う」
「え?」
 私の言葉に、みちるは面を上げた。
「多分、妹尾のために本当にやりたいこと、あきらめたりしたら、あいつ怒るぜ。あいつ、めちゃくちゃ嫉妬深くて、心狭いけど……でも、あいつだって、みちるが本当に選びたい道を選んで欲しいに決まってる」
「……そうかな」
「別の道を選ぶことと、置き去りにすることは違うと思う。別の道選んだって、お前ら、一緒に生きるだろう?」
「……一緒に、いきる?」
「そりゃ別の道を選んで、そのまま音信不通になったりする奴もいるけどさ。そうじゃないだろ。お前らの絆、そんなもんで切れたりしないだろ。例えば、妹尾んちの家族。別々の道選んでるけど、あいつら家族だろ。あいつら、一緒に生きてるだろ。お前と妹尾もそんなんじゃねーの?」
 上手くいえなくて、もどかしいけど。
 アタシはそう思った。遠く離れていても、こいつら二人の心は、ずっと同じところにあって、ずっと、手を繋いでいるんだろうと。
 アタシたちはまだ子供だ。十七。人生はまだまだ無限に思える。学校っていう世界に閉じ込められていて、社会にすら出ていないちっぽけな存在。高校時代のカレカノが、社会に出てからもその関係続けていけるかっていったら難しいと思う。けれど、こいつらは、きっとそんなもの簡単に、乗り越えていけるような気がするんだ。
 ずっと、手を繋いで、喧嘩して、そして笑い転げて、いそうな気がするんだ。
 そうあって、欲しいんだ。たとえ、遠くの空で生きていても。
 みちるは微笑んだ。
「まだ、判らないから。日本の専門も、詳しくみてないし。大学で、栄養の資格とってもいいかなって、最近は思ってるし」
「そっか」
「でも、きちんと、選んで、言うよ」
「うん」
 アタシは、人生で初めて得た親友を、励ました。
「がんばれ」


 その後結局どうしたか。みちるはフランス行きを選んだよ。叶は経営の学べる大学にいくんだと。なんでも、兄貴が宝石店の経営に関わってるのを見て、興味を抱いたらしい。
 二人とも、別々の道を選び取っていく。
 それでも、アタシが願ったとおりに、二人は変わらなかった。
 高校最後の一年は、時を惜しむように二人一緒にいた。毎日喧嘩して、毎日笑い転げて、そして時折、人目を盗んで――うん。これ以上いうのは野暮だよな。
 二人の関係は、結局アタシが初めて見たときからほとんど変わっていないように思えた。そこに、ほんの少し、どうしようもないほどの愛おしさが、加わっただけで。二人がぶつけ合う動詞の中に、愛おしむという単語が、加わっただけで。
 その二人を、間近で見続けることのできたアタシは、本当に幸せだったと思う。二人の関係は、見ている側を幸せにする。
 みちるが叶の義姉に伴われて日本を飛び立つ最後の日に、[つよ]く笑って、二人は手を振り合った。

 ――さようなら、またあいましょう。

 そのときアタシは思ったんだ。
 あぁ、古い傷を乗り越えて、たとえ遠く離れても、相手が戻ってくることを信じているこの二人の絆は、アタシが心配するまでもなく、永遠のものだろうと。


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