クライベイビィクライ 3
凍り付いているのは、みちるも同じだった。
少し離れた場所で、足に根が生えたように立ちすくんで、幽霊でも見たかのように蒼白な顔をしているのは、みちるのよく知る少年だった。
誰もが必ず目と呼吸を奪われずにはいられない、そして、誰よりも孤独な、美しい少年。
(かなえ)
なぜ、自分たちが、同じように身体を強張らせているのか、みちるには判らない。学校では同じクラスなのだから当然顔を合わせる。いちいち、相手の存在に息を止めてなどいられない。
ただ、みちるは、彼が女を連れて自分の前にしっかりと現れた姿を目撃したのは初めてだった。彼が女を連れて歩いているところを、みちるが遠くから目撃することはあっても、正面からその存在を受け止めたのは、初めてだったのだ。
(わたし、どうすべき?)
クラスメイトとして、手を振るべきか、それとも。
目を、そらすべきか。
「あ、妹尾――……」
みちるの視線を追いかけた芝崎が、彼の存在に気づく。
だがそれよりも早く、叶が動いた。
「――……」
何かを呟いて、彼が少女の腕を引き、踵を返す。
その、遠ざかりかける背中を見つめながら、みちるは思い返していた。
『あんた、ずっと邪魔だったの』
そういって、ある日突然みちるを置き去りにした母親の背中。
みちるを置いて、そして二度とその背中は振り返らなかった。
そして、つい先ほど見たばかりの、映画のシーン。
あの中では、サヨナラしたはずの男女が、時を経て再会し、笑い合うけれども。
(あぁ、ほら)
失われたものは、あんな綺麗に、取り戻せたりは、しない――……。
だって、叶の背中は、こんなにもみちるを拒絶している。
おかしい。
どうしてそんな風に、あんたが、拒絶するの。
おかしいよ叶。
だって、私たち。
あんなに、一緒だったのに。
あんなに、わかりあってたのに。
貴方だけが、私の永劫の理解者だったのに――……!
……ぽたっ
「い、委員長っっ!?!?」
みちるの耳元で、芝崎の絶叫とも呼べる声が弾ける。
「だ、大丈夫か!? どうしたんだよ!?」
芝崎の手が、みちるの肩を揺らす。一体、彼は何を言っているのだろう。そう思って瞬いた瞬間、唇に触れた塩辛さに、みちるは自らに動揺した。
(ないてるの? わたし)
泣いている。
涙が、こぼれている。
それは筋となって、頬を伝い、唇をぬらしている。
透明な水はみちるの視界を霞ませる。それでも、身体に力がうまく入らず、指一本も、動かせない。
苦しい、悲しい、切ない。
この、胸の奥から沸き起こる、胸をかきむしりたくなる、感情の渦。
くるしい、かなしい、せつない――たすけて。
たすけて、かなえ。
みちるの願いが、天に通じたのかどうかはわからない。
ふいに頭上に影が差す。荒い、呼吸音が聞こえた。面を上げると手の届く距離に、みちるを拒絶したはずの叶が、肩を大きく揺らして立っていた。
「……かな、え?」
彼の表情は苦悶に歪んでいる。ぎり、という歯をかみ鳴らす音が聞こえたかと思うと、続けて他者を圧倒する声量の声がその場に弾けた。
「どうして――どうして、泣いてんだよ!?!?」
久方ぶりに耳にした、自分に語りかける彼の声。語りかける、という表現の似合わない怒声ではあったものの、その声を、ひどく懐かしいと思った。
「わ、わかん……わかんないわよ!」
泣いていると自覚した瞬間から、呼吸がおぼつかない。息をどうにか整えながら、みちるは叶に怒鳴り返した。
「理由もないのに泣くなよ!!」
「か、かなえが悪いんだよ!!」
本当に叶が悪いと、その瞬間思っていたわけではない。けれどそう叫ばずにはいられなかった。そもそもこんなに気落ちする理由を遡れば、彼の行為が発端に違いはないのだから。
「なんだ、よそ……あぁ」
みちるの叫びに、叶の表情が暗く沈む。彼の表情から潮が引くように怒気が消え、代わりに現れたのは深い悔恨ともいえる、歪んだ笑いだった。
「……そっか、僕のせいか」
あまりにもあっさりと納得されて、二の句を次げない。俯いて静かに微笑する少年を見つめながら、みちるは次の言葉を捜した。
「……あんたの、せいだよ」
結局、同じ言葉を繰り返すことしかできない。
本当は、会話することができたらもっと、言いたいことがあったはずなのに。何を言いたかったのか、忘れてしまった。
今はただ、近くにいるのに遠い、その事実が悲しい。
下唇をかみ締めて口元を引き結んだみちるの耳に、叶の嘆息が届いた。
「……じゃぁ、僕は、ここにいないほうがいいね」
肩を落として、彼は言う。話の流れを鑑みればもっともな言葉だったが、それでもみちるには思いがけないものだった。驚きと焦燥に、弾かれたように彼を仰ぎ見る。少年の顔に浮かぶのは、みちるを突き放す、満面の笑みだった。
その微笑は、いっそ優しいといってもいいかもしれない。慈愛に満ち、相手を包み込むようでいて、そのくせ徹底的に拒絶している、甘く冷たい微笑だった。
「さようならみちる」
ひらりと手を振り、叶が爪先をもと来たほうへと戻す。彼の肩越しに、こちらの様子を伺っている少女の姿が見えた。かわいらしい子だな、と、麻痺しかかった思考が感想をはじき出す。自分のもとを離れて、彼はその少女のもとへと行くのだ。
そう、いく。
いって、しまう。
そして、二度と戻らない。
叶の動きは、コマ送りをした画像のように、ひどく緩慢にみちるの目に映った。
いって、しまう――……。
それでもみちるは言葉を告げることができない。足が竦んで、その場から動けない。指先が冷えている。味覚が麻痺したのか、あれほど感じていた涙の塩辛さを、もう覚えなくなっていた。
『じゃぁね、みちる――……』
そう言って、二度と現れることのなかった女の、幻が脳裏をよぎる。
あのとき、わたしはどうしたっけ。
あのとき、たしかわたしは。
なにもいえずに。
そのせなかをみおくって。
なくこともできずに。
あぁ。
やだ。
ほんとうは。
「――っ?」
叶が唐突に足を止め、怪訝そうに顔を歪めて振り返る。
彼の視線がみちるの身体の上を彷徨い、そして、探し当てる――彼の衣服の裾を捉える、震えたみちるの指先を。
叶の瞳が当惑の色を帯びる。詰問するような彼の眼差しに脅えながら、みちるは自分の呼吸の音を聞いていた。
うまく、息ができない。
うまく、体が動かない。
指先が震える。瞬きすら忘れる。目頭が熱い。頭が痛い。喉がからからに渇いて、視界が霞んで。
気が狂うような息苦しさのなか、みちるは声ともつかぬ震えた吐息で、懇願した。
「いかないで……」
叶が、息を詰めて、目を見開く。
彼は、拒絶するだろう。
何度も、何度も、拒絶するだろう。
だって自分は用済みの女の子に過ぎないのだから。
それでも、懇願せずには、いられない。
「――どこにも、いかないで」
砂漠を逝く人が、水を求めるときの切実さに似たその懇願が、彼の耳にきちんと届いていたのかどうかは判らない。それほどまでに、まるで蜻蛉の羽音のような、自分の耳にさえ届かぬような、囁きだった。喘鳴に混じる声音は、空気に溶けいりそうなほどに擦れていた。
「ここに、いて――……」
ここにいて。
どこにもいかないで。
わたしの、そばから、はなれないでよ。
おねがい。
おねがい。
おねがいだよ。
かなえ――……。
みちるの懇願を拒絶するように、手が、振りほどかれる。
あぁ、彼は本当に、行ってしまうのだと、顔を歪めた、刹那。
「――……え……」
叶の腕が、みちるの身体を抱きしめた。
立って、いられない。
まるで、みちるの身体を砕かんとするような、乱暴な抱き方だった。あの夜、みちるを征服したときと同じだけ、否、それ以上の強さで、叶はみちるの身体を抱きしめる。足から力が抜けて、崩れ落ちそうになるみちるの身体を、叶はさらに掻き抱く。
息継ぎすら忘れて瞬いていると、ひやりとした唇が耳に触れ、掠れた声が、耳朶を震わせた。
「みちる――……」
かれが、わたしをよぶ、こえ。
大きな手が、自分の肩を抱いている。その手に、さらに力が込められる。檻に閉じ込めるように、その腕が身体を抱きしめている。骨が軋むほどの、悲しい強さ。呼吸が、できない。
苦しい、悲しい、切ない。
こんな感情、抱くのは、叶に対してだけだ。彼といるときはいつも苦しい。彼といるときはいつも悲しい。彼といるときはいつも切ない。
息苦しさに眩暈すら覚え、脳裏に光が明滅する。彼の吐息の触れる場所が、熱い。その唇の温度は、雪のように儚く、冷たいのに。
くるしい、かなしい、せつない。
そして。
水泡のように浮かんでは消える感情の渦。
そのうち一つ。その、最後の、想い。
――いとおしい。
自分を抱きしめる力と同じ力で、みちるは叶の身体を抱き返した。
彼のものとは違う、か細い腕で、どこまで彼を抱きしめられるかは判らない。それでも、伝わればいい。
この、気の狂うような、愛おしさが。
胸の奥から競りあがる感情に、みちるは声を上げて泣いた。嗚咽を全てを、彼の胸に押し付けた。
やがて彼はみちるの手を取って走り出す。泣きじゃくりながら彼の手に引かれ、あぁそれでもこの道の先には、きっと光があるのだろうと、みちるは思った。
もうきっと、寂しさに泣くことは、ないだろうと。
いつだったか、木陰で膝を抱えていた私の髪に、美しい花を挿して、君が一番幸せなひとだと笑った。
そして彼は私の手を引いて、光の下へと引き出したのだ。
その光の眩しさに、泣きたくなったことを、思い出した。