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クライベイビィクライ 2


 かれはわたしにだけはとてもざんこくで。
 そしてときどきかなしいほどにやさしい。
 そんなかれが、わたしはとてもきらいだった。
 そしてわたしは、きらいなひとは、とおくへいってもむねがいたまないとしっていた。
 なのに、あぁ、どうして。
 どうしてこんなにくるしいの。


 映画の原作は知っている。喧嘩別れしてしまった幼馴染同士の男女が、数年の時を経て、偶然全く別の街で再会するのだ。様々なすれ違いを経て、最後には結ばれる。そんな話。
「……ぐ、うぐ」
「……ハンカチ、貸そうか?」
「い、いや、いい……」
 みちるの差し出したハンカチを、芝崎は目元を押さえながら固辞した。映画の途中から、彼はずっと鼻をすすっていて、映画の内容に感動していたようだ。映画が終わり、こうやって二人で休憩のためにカフェに入っても、芝崎の目は赤い。
「大丈夫?」
「大丈夫だ! ちょっと目にゴミが入っただけだ!」
「ばればれの嘘をいうと、余計にむなしくなると思うんだけど……」
「……うぅぅ。まったく、その通りだ……」
 テーブルの上に突っ伏してしまう芝崎を見下ろしながら、みちるはバナナスムージーのストローに口を付ける。前評判通り、確かになかなか面白い映画だったなぁと思い、机の上に置いたパンフレットを見た。パンフレットは朔に見せてあげようと思って買った。切ない系のラブストーリーだったが、無理がなくて、いい映画だったと思う。
「でも、男が映画で泣くとかって、格好悪いよな」
「そう? 感受性が豊かなだけじゃないの?」
 別に男が映画見てないても可笑しくはないと思う。近所にある呉服屋の店員は、男だが映画やドラマみてわんわん泣いたりするし、なじみの喫茶店の店主も、よくドラマの登場人物に感情移入しすぎて、拳振り回したりする。
「……委員長って、映画とかであんまり泣かないほう?」
 テーブルの上に頬を付けたまま、芝崎が尋ねてくる。みちるは天井を仰ぎ見ながら考えた。
「……そうだね。そうかも。あんまり、泣かない、かなぁ」
 大抵、感想としていい映画だなと思う。けれど登場人物に感情移入して泣いたりすることはない。
「映画は、所詮映画だから」
 楽しむべきものではあるけれど。
 現実のほうが、もっと痛くて、もっと、切ない。
「……委員長って、クールだよなぁ。俺とは反対だ」
 しみじみとした芝崎の呟きに、私は思わず笑った。
「そうね。芝崎君は熱いもんね」
「……そう、なんか歯に衣着せぬものいいされると、へこむんだけど」
「あ、ごめん」
 思わず自分の口元を押さえる。彼に、申し訳なく思った。
「……あのさ、正直にいってくれていいんだけど」
「……何?」
「映画、面白くなかった?」
「面白かったよ」
 みちるは芝崎の問いに即答した。なぜそんなことを尋ねるのか、みちるには不思議でならなかった。
「いや、なんか、本気でクールだから、気になって」
「面白かったよ。よく出来たお話だった」
「……よくできた、お話?」
 みちるの物言いに引っかかりを覚えたらしい。鸚鵡返しに尋ねてくる彼に、みちるは怪訝に思いながらも言葉を続ける。
「だってそうでしょう? 綺麗で、よくできたお話だから、面白かったよ。現実ではあぁにはならないと思うし」
「……どこらへんが? 現実とは違う?」
「……んー?」
 自分は、何かおかしなことを口にしているのだろうか。
 首を傾げつつも、みちるは芝崎の問いについて考えてみた。
「ひどい喧嘩別れした幼馴染が、再会して声を掛け合うっていうところもなんだか……非現実的じゃない?」
 ドラマならば許されるが、現実はそうではないだろうと思う。
 再会しても、昔の己の幼さや罪を目の前に引きずり出されたような気がして、他人のふりをしてしまうのではないだろうか。
「一度離れたものは、二度と戻らないと思うんだ。ひどい別れ方をしてしまったのなら、きっと、再会した時、そんな風に簡単に声をかけられるものじゃないと思うけど」
 一度離れてしまったものは、もう二度と戻らない。
 みちるはそれを知っている。
 もし自分が母親と再会したとしても、自分は彼女に声をかけることなどできやしないだろう。叶と彼を捨てた養母は和解したけれど、その関係にはシコリが残る。
 一度さよならしたものを、簡単に取り戻せるほど、世界は優しく回ってはいない。
 あんなふうに、映画のように、綺麗に、取り戻せたりしない。
 取り戻せない。
 もう、にどと。
 かれの、となり。

 ――からだが、いたむ。

「委員長?」
「え?」
 芝崎の声が思いのほか大きく響き、みちるは驚きに瞬いて面を上げた。いつの間にかテーブルから身を起こした芝崎が、心配そうにみちるの顔を覗き込んでいる。
「ごめん。俺、変な質問したな。なんかすごく、考えさせた?」
「ううん。……どうして?」
「なんか……いや、いいや」
 あはは、と笑い声を立てて、芝崎が頭を掻く。彼は手元のコーヒーを一息に飲んでしまうと、外に視線を移した。
「大分暗くなってきたなぁ。そろそろ外出るか」
 芝崎に習って外を見やる。硝子ごしに見える街の通りでは、色とりどりの電飾が瞬いている。たくさんの、クリスマスイルミネーション。毎年早いなと思う。まだ一月あるのに。
 年の瀬まで、もう、一月すこししか、ないのか。
 空になったスムージーのプラスチックカップを置いて、私は微笑んだ。
「そうだね、でようか」


 私は母親が大好きだった。私の世界の全てだった。なのに私を置き去りにした。いらないといった。もう二度とそんなことは御免だった。
 どうしたら、二度とそうならないでいられるか知っていた。誰も好きにならなければいいのだ。誰も好きにならなければ、誰かが私を捨て置いても胸など痛まない。子供の私はそう信じた。
 好きにならなければいい。期待しなければいい。信じなければいい。そうすれば、いつか一人になっても、私、生きていける。
 なのに、どうして、私は無意識のうちに、信じていたんだろう。


「それにしても、本当、寒くなったよなぁ」
「本当だね。なんか、初雪でもふりそう」
 みちるは空を見上げて歩きながら、芝崎の言葉に同意した。朝は清々しく晴れていたというのに、外に出ると空は鉛色の雲に覆われている。風も肌を刺すように冷たい。街行く人々は皆肩をすくめて、寒さに頬を紅潮させながら歩いていた。
「委員長は寒いの苦手?」
「私? さぁ、あまり、考えたことない。……あぁ、でも、雪は好きかも知れない。ひんやりしてるの、気持ちいいから」
「そっか」
「芝崎君は?」
「俺は結構苦手かな。暑いのがいい」
「あぁ、うん。なんか納得」
「どういう意味だよそれー?」
 拗ねたような芝崎の言葉に、みちるは小さく笑う。彼の問いには答えず黙って歩きながら、みちるは再度手を吐息で温めた。
「あ、委員長みてみろよ」
「え?」
「すっげー。もうクリスマスツリー出てる!」
 芝崎が指で指し示したのは、自分たちが歩く歩道のすぐ脇に、王者のごとく鎮座するクリスマスツリーだった。むしろ歩いていたみちるが気づかないほうがおかしいほど、七階建てのビルの半分ほどの背丈をしたツリーが堂々と飾られている。街並みを彩るネオンの灯りを全て集めたような煌びやかさ。様々な色の電飾が、交互に瞬いて――夢の世界へと、人々を惑わせる。
「きれいね」
 みちるは呟いた。
 本当は、クリスマスなど好きではない。幼い頃からあまりよい思い出がない。幼少時代、笑いに満ちた家々の路地を抜けて、一人で雪の降る海辺を走り、家へ戻った。明るい電飾は、あの古いアパートの部屋をいっそう物寂しく見せた。今は店長らが毎年賑々しく騒ぎ、みちるもその中に巻き込まれているとはいえど、古い傷がうずくことには変わりない。
 賑やかすぎて、眩しすぎて。
 孤独を、いっそう際立たせる。
 でもその感情を、芝崎は理解することなどできないだろう。実際、彼はいつもと同じ、大きく明るい声で言った。
「いいなぁ! 賑やかだよなぁ! なんかわくわくすんな!」
「そうだね……」
 みちるはクリスマスツリーを眺めながら彼に生返事をした。芝崎が明るく笑い、目を輝かせれば輝かせるほど、消沈していくみちるの心中を、彼は知ることはない。
「……あの、さぁ、委員長」
 芝崎の声が思いがけなく低められていて、みちるは驚きに彼を振り返った。自分の態度が、彼を傷つけたのではないかと思ったからだ。しかし芝崎はコートのポケットに手を突っ込み、頬を真っ赤に紅潮させて、みちるの顔を上目遣いにうかがっていた。
「……あの、さ」
 彼は先ほどと同じ言葉を繰り返す。
「今日、楽しかった?」
「今日? ……うん」
 映画はよい映画だったし、結局ジュースもおごってもらったわけだし。楽しかったといえば楽しかった。
 芝崎の問いの意図が読めず、首を傾げていたみちるに、彼は言葉を続ける。
「あの、その、よかったら」
 歯切れの悪い彼の言葉は。
「今度の、クリスマスも――……」
「先輩!」
 高く響いた、少女の声で遮られた。
 聞き知った少女の声ではない。どうしてその声に、一瞬気を取られたのかはわからない。みちるは無意識のうちに、芝崎よりも、彼の背後から響いた少女の声に引き寄せられていた。
 目を向ける。一組の男女が、曲がり角からこちらへまさしく足を向けたところだった。二人とも、自分たちと同じ年頃。少女は少年の袖を引いて、笑いかけている。少年はその少女の呼びかけに応じるように口元を緩め――……。
 そして、凍りついた。


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