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提案


「進路は決まった?」
 その問いは、みちるの心を向き合わなければならない現実世界に引き戻した。
「進路、ですか?」
「うん」
 笑顔で頷き、みちるの前に紅茶のカップを差し出すのは、年のころ三十前後、落ち着いた雰囲気を纏う女性である。
 名前を、妹尾朔という。叶の長兄の奥方だ。
 日曜日の夕方、みちるは叶の長兄の家に招かれていた。とはいっても彼はいない。ここ数日、仕事で東京へ行っているらしい。一人の食事が寂しいからと、招かれたのがみちるだった。
「大学とか、決定する時期でしょう? そろそろ」
「私、大学にはいくつもりないです」
「そうなの?」
「はい」
「店長に負担かけてしまうから?」
「――そう、ですね」
 高校だって本当は出るつもりなかったのに、絶対出なさいと、店長は学校の教諭と共謀して願書をだしたのだ。
「もったいないね。みっちゃん、頭いいのに」
 そういって、朔は残念がる。みちるは出された紅茶に視線を落とした。
「そんなこと……ないですけど」
「店長も、みっちゃんが大学行きたいって言えば、行かせてくれそうな気がするけどね」
「いいんです。私、大学で特に勉強したいこともないですから」
 何か目的があって、大学に行くのならいい。けれど今のみちるには、そういったものがまったくなかった。目的意識がないのに、店長に負担を強いることだけはみちるにはできない。
「そっかぁ……。あ、デザートに、みっちゃんの作ってくれたケーキとってくるね」
「あ、はい。何か手伝いましょうか?」
「いいの。座ってて」
 朔は微笑んでみちるに座るように指示し、キッチンのほうへと歩いていく。冷蔵庫の開閉音が聞こえ、食器の触れ合う音がした。おそらく、ケーキを取り分けているのだろう。
 やがてトレイに、ティーポット、ミルクや砂糖、陶器のカップの載ったケーキ皿を二枚のせて、朔が現れる。おぼつかない足取りに、みちるは立ち上がった。
「や、やっぱり手伝います! 座っててください朔さん!」
「そう?」
 じゃぁお願い、と小首をかしげて笑う朔から、みちるはトレイを引き取った。朔が大きなお腹を抱えて椅子に腰掛ける。細身の体に、膨らんだお腹は重たそうだった。
 あの中には、小さな命が入ってる。
 何かあったら、取り返しが付かない。片付けも全てこちらがやるから、大人しくしていて欲しいとみちるはこっそりため息をついた。
「でも動いていないと、おちつかないのよね」
「赤ちゃん生まれたら働いてくださって全然構わないですから。見ててあぶなっかしいんですよ」
 陶器のカップの載ったケーキ皿を朔の席と自分の席に並べ、みちるは朔に反論する。朔は苦笑しながら、ありがとう、と謝辞を述べ、ケーキ皿を引き取った。
 ティーポットの類はトレイごとテーブルの上において、みちるもまた席についた。
「美味しそうねぇ。今日はクレームブリュレ?」
「チーズスフレです」
「……スフレなの? コレ」
「表面キャラメルふって焦がしたんです。中はスフレですよ」
 陶器に入れたので、一見クレームブリュレに見えなくもないが、中身はスフレケーキである。本当はホールで作ろうかと思ったのだが、作り出したときにホール型が空いていなかったのだ。
 ケーキは、喫茶店、猫招館の厨房を借りて作らせてもらっている。しかし今日は、月のもののせいもあるのだろう、体が気だるく昼寝をし、うっかり約束の時間を寝過ごしてしまったのだ。一足先に、昌穂がケーキを焼くためにホール型を使ってしまったというわけである。
「頂きます」
 丁寧に手を合わせて、朔がスプーンをスフレの中に刺し入れる。
「本当だ! しかも何かソース入ってる!」
「ラズベリーソースです。確か好きでしたよね?」
「好き好き! ……おいしー!」
「本当ですか?」
「うん」
 スプーンを口に入れながら幸せそうに顔を綻ばせる朔を見て、みちるは安堵に胸をなでおろした。耐熱の陶器を使って焼いたが、きちんと焼けているかどうか不安だったのだ。味見した限りでは、少し柔らかすぎるような気すらした。
「どうやって作るのこういうの?」
「んー。適当なんですけど……今回は一度下の焼いたら、かなり柔らかすぎたので、そこにゼリー状にしたベリーソース挟んで、その上からもう一度スフレ生地流しいれて二度焼きしたんです。それでもまだなんか柔らかい気がするんですけど」
「難しいことは判らないけど、私はこれでいいと思うよ。生地しっとりしてて。スフレってこんなもんじゃない?」
「そうですか?」
「うん。みっちゃんも食べなさいな」
「はい」
 勧められるままに自分の分のケーキを口にする。やけに朔が美味しいを連呼しながら食べてくれているので、個人的に気になっていた柔らかさも、それほどではないような気がしてきた。
「いいねぇ。みっちゃん。料理もお菓子も、何でもござれか」
「いや、何でもっていうわけじゃ」
「でもお菓子は売り物みたいに上手だし……和食も得意なんでしょ?」
 みちるはあまり、褒められることが得意ではなかった。そうですかね、と小首を傾げ、ごまかしのように紅茶をすする。
「得意ってほどじゃないんですけど」
「でも、叶君が褒めてたからね」
 思いがけない名前に、ぎくりと体が強張る。その緊張が、朔に伝わっただろうか。彼女は人の機微に、とても聡い人間だった。恐る恐る面を上げるが、彼女は気が付いた様子がない。紅茶のカップに口をつけながら、朔は話続ける。
「妹尾の人たちって、アレで舌肥えてるから、他人に美味しいんだって言うのはよっぽどだと思うの。うらやましいね。叶君毎日食べられるんだもんね」
「……毎日?」
「あれ? 違うの? 毎日お弁当作ってるんでしょ、みっちゃん」
きょとん、と目を丸めて尋ねてくる朔に、みちるは首を横に振った。
「いえ。最近は」
「なぁに? また彼女作ったの? 叶君」
「……みたいです」
「……やぁね。いい加減にしておけばいいのに」
 叶に彼女ができたらしいという噂を聞いたのは、週の終わりのことだった。らしい、というのは、今回は叶からの報告がなかったからである。弁当作りの関係もあるので、いつもならば彼女ができれば報告がある。けれど、今回はそれがなかった。
 もう、叶とは一週間、口を利いていない。
 ――あの、かれが、わたしをだいた、よるから。
「みっちゃん?」
 朔が、首を傾げ顔を覗き込んでくる。
「どうかした? もしかしてまた、叶君と喧嘩したの?」
「えぇ、実はそうなんです」
 叶と喧嘩をするのはいつものことだと朔も知っていることだ。困ったような笑顔を取り繕い、みちるは朔に答える。
 しかし朔はいつものように、喧嘩するほど仲がいいっていうものねぇと茶化してくることもなければ、また叶君が何かいったの? と、尋ねることもなかった。飽きないわねぇ、と、呆れた顔をすることも。
 小さく微笑んで、彼女は話題を切り替える。
「そういえば、さっきの進路の話なんだけどね」
「は、はい」
「大学に行かないにしても、これからどうするの? あのパン屋さんで働くの?」
「そう、なるんじゃないかなぁと」
 ただ、店長がそれを許してくれればの話だが。
「それじゃぁ、専門とかいったほうがいいんじゃないの?」
「専門……専門学校ですか」
「うん」
 確かに、朔の言うとおり、あのパン屋で働いていくのならば、専門の知識があったほうがいい。実際、大学よりも、みちるはそちらのほうに進みたかった。パン作りにしろ、趣味の菓子作りにしろ、何かを作っているほうが、性には合っている。パン屋の仕事は早朝に起き、夜半に終わる。しかも週休二日などあったものではない、ひたすら立ち仕事の厳しいものだが、子供の時分からの習慣として身体に染み付いてしまったせいか、あまり苦には感じない。
「そうですね。私も、できることなら、そっちを勉強したい」
「それは、店長さんたちのため?」
 小鳥のように、小首を傾げる朔の瞳を、みちるは黙って見返した。朔は、時折意味深な問いを投げかけてくる。
「いいえ」
 みちるは微笑んで首を横に振った。
「店長のためというよりも、私が、好きなんです。さっきの朔さんみたいに、誰かが喜んでくれる顔、みるの」
 自分の作ったもので、幸せそうに皆が微笑む姿が、とても好きだ。
 美味しいといって、食べてくれる。その姿をみるのが好きだ。
 だから、奈々子や叶に請われて、毎日料理を作るのだろうし、昌穂に請われて、お菓子を焼いたりするのだろう。彼らの驚く顔が見たくて、工夫を凝らしもする。
「そう」
 朔は満足げに微笑んだ。
「あのね、みっちゃん。もしよければだけどね、一つお話があるの」
「……お話?」
「そう。……あのね、私の友達に、フランス出身の子がいるんだけど。この間遊びにきてたのね、こっちに」
 朔は大学卒業からずっと、海外で働いていたのだという。そのため、国外に知り合いが多いらしい。しかしみちるは、その誰とも会ったこともなければ話題を耳にしたこともない。
 何故突然そんな話題を、と首を傾げかけたみちるに、思わぬ提案が飛び込んできた。
「その子が、ね、みっちゃん、フランスに呼んだらだめかって」
「……は、はい!?」
 思わぬ内容に一瞬思考がフリーズする。困ったような微笑を浮かべる朔に、みちるは早口で尋ねた。
「私にフランスへ行けってそういう話ですか?」
「行けっていうわけじゃないけど。私も知らなかったんだけど、その子の実家、フランスで有名な洋菓子店らしいのよ。私、彼女を猫招館に連れて行ったの。そのときに食べて絶賛してたお菓子が、みっちゃんの作ったものだったらしくて」
「……コーヒー請け用の?」
「そうそう。今はクッキーだったかしらね」
 確かに、休日限定で、昔から猫招館のコーヒーや紅茶に無料で付けられる小さな菓子類を作ってはいるが。
「みっちゃんの家のことも少し話したわ。事情があって、小さいときから働いている、ぐらいにしか言わなかったけれど。職人の家で育っているならなおさらいい。あっちのお店へ行って、修行しないかって伝えてくれって、この間言われてね」
 それで、今日は食事に呼んだの、と、朔は微笑んだ。
 話が急すぎて、いまいち把握しきれない。
「私が?」
「フランスでは洋菓子職人は、地位ある職らしいんだけど、女性は少なくて。私の知り合いは、フランスで数少ない女性の職人のお店なんですって。……もちろん、大変だとは思う。激務である以上に、言葉や習慣もまったく違う。アジア人の地位は、もちろん低い」
 後半の部分は、朔の経験から出た言葉だったのだろう。みちるの耳に、重く響いた。
「けれどきっと勉強にはなる。みっちゃんはよくがんばる子だから。急だし、大事なことだから、よく考えて、お返事くれるとうれしい」
「……冗談じゃないんですね」
「もちろん。冗談でこんなこと、話したりしないよ」
 急でごめんね、と朔は言う。みちるは、首を横に振った。
「ありがとうございます。考えて、みます」
 どうせ大学へ進学するつもりはなかった。みちるの未来はあまりに不透明だった。一度、叶に叱られたことがある。真剣に、未来を考えろと。
 店長たちの恩義に、縛られる必要は、ないのだと。
「また今度、お店のぶろーちゃ……パンフレットとかも送ってくるらしいから」
「はい」
「でもそれだけじゃなくて、専門行くなら、日本の専門をみてみるとか、将来のことはしっかり考えておいたほうがいいよ。これは、社会人からの忠告」
「はい」
「だって、私大学のころ、なーんにも考えてなくて、大変だったもの」
 そういって、朔は悪戯っぽく笑う。
「そうなんですか?」
 重たくなった空気を、払拭するように、みちるもなるべく明るい声を上げた。朔もまた、手を打ちながら、昔の失敗談を、明るく笑い話として口にする。
「そうそう、実はね……」


 苦い思い出を、明るく語る朔の声に耳を傾けながら、ふと思う。
 遠い遠い街にいけば、二度と会うことはないのだろう。
 そうすれば、この痛みは消えるだろうか。忘れることができるだろうか。
 体をじくじくと蝕む、あの、悲しい夜の痛み。
 自分の名を呼ぶ掠れた声。
 雪のような、手の、温度。


「ご馳走様でした」
 玄関まで見送りに出てくれる朔に、みちるはぺこりと頭を下げた。
「いーえ。お粗末さまでした。今度は料理教えてね」
「私、朔さんに教えられることなんてないですよ?」
「あるある。ぜったいみっちゃんの方が料理上手そうだもの」
「……そうですかねぇ?」
 朔は謙遜していうが、この人も相当能力が高い。今日出された料理はもちろん絶品だった。みちるの味付け方とは無論違うが、また食べたいと思わせる上質の味だ。
「それじゃ」
 失礼します、と口にしかけたみちるは、ふと伸びた、朔の手に目を瞬かせた。
 朔の手が、みちるの頬に、まるで羽で撫ぜるように、そっと、触れる。みちるは反射的に身を引きそうになりつつも、どうにか堪えた。
 ほんのりと温かく、柔らかい手からは、甘い匂いがした。
「朔、さん?」
「……みっちゃん、すごく、綺麗になった」
 朔は微笑んで言った。
「女の子だね……」
 それは、一体、どういう意味なのだろう。
 意味深な微笑を浮かべて、彼女は続ける。
「何か、あったら言ってね。お姉さん、経験は豊富だから。役に立てるかもしれない。もちろん」
 解決するのは、あなた自身だけれど――……。
 確信を言わずに微笑だけ浮かべる朔に、みちるは黙って頭を下げる。どきどきと早鐘のように打つ胸を抑えながらエレベーターに乗り、マンションを出て振り返ると、朔はまだ玄関先から、みちるを見送ってくれていた。
 ショールの前をかき寄せつつ手を振ってくれる朔に、手を振り返し、みちるは街灯が明るく照らす通りを歩きだす。
 一瞬、全て、判られたのかと、思った。
 そんなはずは、ないのだけれど。
 いろんなことがありすぎて、頭がオーバーヒートしそうだった。
 街灯の下で立ち止まり、鞄の中を漁る。程なくして、指先に硬いものが触れた。
 銀色の、鍵だった。
(あした、かえそうかな……)
 あいたくないというのなら。
 げたばこのなかにでもいれておけばいい。
 一つ一つ、直面する問題を、消化してかなければ。今回の提案のことも、考えていかなければならない。
 目を閉じ、鍵を握り締める。小さく苦笑して再び目を見開き、みちるは夜の街を歩き出した。
 吐く息が、とても白かった。


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