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ハッピースイーツ


「ぉおおおぉぉおぉおっ!!!」
 テーブルの上に置かれた、小さな籐の籠。そこに綺麗に盛り付けられた焼き菓子を前に、ぷるぷると拳を震わせている男がいる。
 男はばっと面をあげると、両手を広げ、男の傍らにいたみちるに飛び掛った。
「俺は、俺は感動やで、みっちゃー!!!!」
 どげしっ
「ん……ぐ……」
 どしゃっ
 みちるに飛び掛ろうとした男は、みちるの傍らからすっと伸びた女の美しい足によって床に沈没していった。みちるはぱちくりと目を瞬かせた。自分を背後から抱き取って、男に遠慮のかけらもない蹴りをお見舞いした女と、床で目を回している男を交互に見比べる。
「まったく、油断も隙もない」
 足を納めた女は、呆れ眼で言葉を吐き捨てた。美しい女だ。画家がいれば迷わずその美しさを筆に残そうとするだろう。写真家がいれば迷わずその被写体に選ぶだろう。もしくは、そのフレームの中に収めることすら恐れ多いというかもしれない。
 とりあえずみちるはその場に屈み、床で伸びている男に小首を傾げる。
「えーっと、大丈夫ですか? 昌穂さん」
 男はいまだに鋭い蹴りの衝撃から立ち直れないのか、顔を床に伏せたままよろよろと手をあげ、親指をぐっと立てる。なにがグッドなんだかよくわからないが、無事ではあるようだ。
 嘆息し、立ち上がったみちると入れ替わりに、紅茶とコーヒーの乗った盆を携えた女が男の傍らにかがみこむ。
「ハガさん、ロリコン」
 男の耳元にそっと口をよせ、淡々と囁く女は、正確に言えば女ではない。女装が趣味の男だそうだ。しかし少し眠たそうな表情を浮かべるその人物は、どう見ても女にしか見えない。
「助平、見境なし、ペドフェリア。性犯罪者になっちゃう?」
「アツキさんアツキさん。そろそろいじめるのやめておかないと、昌穂さんなんだかそのまま地面にめり込んでいきそうですよ」
「めり込め」
「アツキさーん……」
 敦基、という名前の彼――あるいは彼女――は、決してみちるを案じて昌穂に暴言を投げつけているのではなく、単にからかうことが趣味であるからだ。無表情で淡々と様々な言葉を羅列していく敦基からはしかし、嬉々としたオーラが透けて見える。
「まぁ、放っておきなさいよみっちゃん」
 そういって、みちるの肩を引いたのは美しい人。
「棗お姉さん」
 女神すら裸足で逃げようかという美貌の女は、みちるに名前を呼ばれて微笑んだ。
「それよりも早く、出来立て食べましょう。美味しそうだわ」


 猫招館[しゃおへいかん]は商店街と住宅街の境に位置する喫茶店だ。猫が頻繁に出入りすることさえなければ、支店を出すことができるのではないかとさえ言われている喫茶店。そこで提供されるものは全てが一級品だ。この喫茶店の甘味を食べれば、もう他で食べられないという。この喫茶店のコーヒーに口を付ければ、もう他のコーヒーは飲めないという。しかし営んでいる人間も出入りする人間も、そろって変わり者が多い。この店はそういう店だった。


「本当にいいんですか?」
「えぇよ。味、申し分ないし」
 みちるが趣味で焼いている焼き菓子を、お茶請けに出したいといわれたのは、みちるが中学上がる寸前の春休み。コーヒーや紅茶に添えるだけの菓子を、焼いて欲しいのだといわれた。売り物じゃないから気負わんでえぇよ。店主の昌穂からはそうは言われたが、曲がりなりにも通の店。趣味で焼くものとはわけが違う。
 そんな訳で、いくつか試作品を家で練習したあと、一番美味しそうなレシピを選んで、お披露目のために改めて昌穂の店で作り直した。
「年齢どうこうはともかくとして、みっちゃんの焼き菓子はえぇ感じやねん。特に今日作ってくれたんは、コーヒーや紅茶の味を邪魔せぇへん」
「私は昌穂みたいに専門なことはいえないけど、美味しいわよ。サクサクしてて」
 綺麗に磨かれた爪の飾る指先で、優雅に小さな焼き菓子をつまみ上げ、口に運びながら棗がコメントする。居心地の悪さに、みちるは萎縮しながら呟いた。
「ありがとうございます」
 褒められることはむしろ苦手だ。しかもここまで褒めてくれているというのに、どうしても信じられない。昌穂、敦基、棗の三人は黙々と菓子を消化してくれているが、彼らは「大人」だ。たとえみちるの作ったものが出来のよくないものだとしても、彼らは優しく微笑んでそれを消化していくだろう。
 優しすぎる大人は、時にそうやって嘘を付くことを、みちるは知っていた。
 嘆息をどうやって隠そうか思案していたみちるは、ふと耳に届いたドアベルの音に面を上げた。
「何食べてんの? みんなで」
 姿を現したのはサッカーのユニフォーム姿の少年である。彼の姿に反応して、棗が立ち上がった。
「叶」
 棗の呼びかけに僅かに眉を上げて応じ、彼はすたすたと歩み寄ってくる。
「棗、隻が探してた。帰ったほうがいいんじゃない?」
「は? 隻が? 何で?」
「さぁ? 僕に聞かないでよ」
 弟の言葉に頷いて、棗が立ち上がる。みちるに手を振った彼女は、携帯電話を取り出し、それを耳に当てながら颯爽と店内を出て行った。おそらく、用事があるらしい彼女の兄に連絡を取り付けるためだ。
 棗と入れ替わりに席についた叶は、昌穂に笑顔で言った。
「昌穂ぉ、飲み物頂戴?」
「えぇけど、何がえぇんや?」
「ソーダフロート」
「……お前、相変わらず甘いもんすっきやなぁ」
「できんの? できないの?」
「できる。そこでおとなしゅう待っとれ。みっちゃんいじめんなや」
「失礼な。いじめたりするもんか」
 心外だ、とでもいいたげに口先を尖らせ、叶は昌穂を追い払う。どうだか、と呟きながら、昌穂は席を立った。それにしても、これからジュースを用意してもらおうというのに、昌穂に対してひどい扱いだ。
 彼はそのまま、ごく自然に籠に盛られた焼き菓子に手を伸ばし、それを無言のまま消費し始めた。
「……食べないの?」
 みちるが菓子にちっとも手を伸ばそうとしないことが気にかかったのか、珍しく声をかけてくる。その間にも、その手は焼き菓子に向かって伸びていて、動きは止まる気配がない。
 みちるは彼の質問には答えず、逆に疑問を口にした。
「美味しいの?」
 みちるの問いに、叶は素直に頷く。
「うん」
「それ、私が作ったんだけど」
 ――んぐ、と。
 叶は一度喉を詰まらせた。そのまま口の中のものを咀嚼し、籠の中の菓子と、みちるの顔を交互に見比べる。
 自分と叶は天敵ともいっていい。口を開けば大抵喧嘩にしかならない。ほんの時折、例外はあるが。
やがて叶は嘆息すると、黙って新しい菓子に手を伸ばした。
「美味しいよ」
 そういって、彼は新しいそれを咀嚼していく。さくさくという香ばしい音が、断続的に響く。
みちるは驚いた。
「……私の作ったものなのに?」
「食べ物に罪はないよ。……普段、失敗ばっかしてんの?」
「……ううん。いっつもこんな感じ」
「ふぅん。じゃぁきっと、才能あるんだよ。美味しいよ、これ」
 そういって彼は黙々と、籠の中の焼き菓子を消化していく。本当に、手を止めるつもりはないようだ。
 叶がいうのなら間違いない。菓子は美味しく焼きあがったのだろう。彼の評価は信用できる。彼は、みちるには優しくないから。
 みちるに優しくないからこそ、彼の言葉は信じられる。なんと皮肉なのだろう。
「ほんと、美味しい」
 そう繰り返す叶に、みちるは思わず微笑んだ。
「ありがとう」
 ぱちくりと。
 叶が目を、瞬かせる。
「……どうか、した?」
 驚いたように目を見開き、動きを止めた叶に、みちるは首をひねる。しかし叶は少し頬を赤くして、ぷいとそっぽを向いてしまった。
「なんでもないよ!」
「……そう?」
 ふてくされたように、菓子を次々に口の中に放り込んでいく叶は、見ていて実に清々しいが、喉に詰まらせたりはしないのだろうか。
 まぁいっか、と納得して、みちるも菓子に手を伸ばした。
 その甘さに、顔がほころぶ。うん。我ながら上出来だと、自己満足。
 天気はいいし、食べ物は美味しい。そして何より、いい人たちに囲まれている。
 そんな私は、とっても幸せだと、みちるは思った。


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