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ソレデサヨナラ


「また、彼女できたんだってさ。」
 こん、とバナナ牛乳の紙パックをみちるの傍らに置いて、奈々子が言う。差し入れ。そんな風に笑った彼女に、みちるも笑みを返した。
「ありがとう」
「聞いた?」
「うん」
「それで最近、弁当食いに来てなかったんだなぁ。けど、久しぶりだよな。あいつが彼女作んの」
「……うん」
 みちるは目の前に広げたお弁当に視線を落とす。叶はもう来ないだろう。そう思って、かなり量を減らした、お弁当。
「ねぇ奈々子」
「ひゃんは(なんだ)?」
 イチゴ牛乳をストローで飲みながら弁当のおかずを物色していた奈々子が、顔を上げる。みちるはお箸のケースを握り締めたまま、彼女に請うた。
「……お弁当作るの、しばらく、止めにしていいかな?」
「……どうしたんだ?」
 ストローを口からはずして、奈々子が顔を覗き込んでくる。何せ高校入学から一年半と少し、イベント事のある日を除いて毎日作り続けてきたのである。
 みちるは奈々子に微笑んだ。
「うん。大丈夫。ただ最近、なんか身体がだるくて。朝うまく起きれないんだ」
「……風邪とか?」
「かもしれない」
「急に冬っぽく、なったもんな。顔青白いなぁ。大丈夫か?」
「うん」
「とりあえず、ストーブ、強くするよ」
 そういって奈々子は四つんばいで近くのストーブに手を伸ばす。冬場は屋上でなんてとても食べられない。秋口になったころから、昼食時、天文部の部室をこっそり使わせてもらってる。奈々子が旧式ストーブのつまみを調節し、部屋の温度を上げるべく苦心しはじめた。
「大丈夫、奈々子。寒くないよ」
「でもさぁ。……んーまぁ、あったかくしとけよ?」
「うん」
「じゃぁ明日から昼飯どうすっかなぁ……」
 奈々子が胡坐をかいて、明日の昼食についての算段を口にする。みちるは彼女に一つずつ丁寧に応対しながら、それでも意識はどこか上の空だった。


 叶が強引に自分を抱いたのは、ほんの二週間まえのことだった。
 何故彼がそんな行為に及んだのかは判らない。無論自分にはかつてそのような経験があったはずもなく、苦痛と、そして驚きに泣いて泣いて、半日程度その場から動けず眠った。
『帰んの?』
 みちるを抱え込むように眠っていた叶の腕の中からそっと抜け出す。身支度を整え、部屋から抜け出そうとした背に声がかかった。
『うん……』
『……なら』
 そこで、一度言葉を切る。うまく、目を合わせられずに俯いているみちるの耳に、彼の嘆息が聞こえた。
『家、鍵かけといて』
『……自分で鍵くらい、かければいいじゃない』
 そもそも自分は、この家の鍵など持ち合わせていない。オートロックでもあるまいし、無理というものだろう。
 しかし叶はのそりとベッドから起き上がると、手を伸ばし、机の引き出しの中から何かを取り出した。それをこちらに、放り投げてくる。
 慌てて受け取ったのは、鈍色に輝く、鍵だった。
『かけといて』
『……この鍵、どうやって、返すの?』
 後々考えれば、弁当を食べるときにでも返せた。けれどみちるはそのとき、もうこれ以上叶の顔を見たくはないと、本気で思っていた。
 自分の声は、きっと強張っていた。
 彼の、理不尽な行動に対する怒りと悲しみによって、強張っていた。
 叶は一度悲しそうに顔をゆがめて、その後、冷ややかに笑った。
『下駄箱の中にでも、入れておいてくれたらいい。――……僕の顔が、みたくないなら』


「……結局、返してないなぁ、鍵」
 放課後の教室にはみちる一人。皆、帰路か部活へと散ってしまった後だった。みちるは職員室に呼ばれたままの奈々子を待って、一人時間を潰している。
 みちるの手のひらにあるのは、くすんだ鈍い輝きを放つ鍵だった。妹尾の家の鍵。渡されたままでも平気ということは、おそらくスペアキーなのだろう。
 一度、下駄箱の中に入れようかと昇降口の下駄箱の前まで行ったことがある。けれどそうすると、本当に自分が叶の顔を見たくないと主張しているような気がして、結局そのまま引き返してしまった。
 みちるは、机の上に突っ伏した。
 ひやりとした机の天板が、みちるの頬の温度を徐々に奪っていく。下腹部がつきりと痛んだ。ここのところ、ずっと痛んでいる。あのときの痛みを、再生するように。
「結局私も、挿げ替えのきく、女の子の一人にすぎなかったんだね」
 叶は誰も信じていない。叶は誰も愛していない。彼は誰も見ていない。その瞳に映していない。
 彼が告白してきた少女の懇願に安易に頷き、そしてそれ以上に簡単に、何事もなかったかのように切り離すことができるのは、彼にとって少女たちが彼の寂しさを埋めるための代替可能な「女の子」に過ぎないからだ。簡単に甘い言葉をかけ、簡単に身体を重ねるのもきっとそう。
 自分に対しては、そうじゃないと思っていた。
 そうでないと、思っていたかった。
 けれど彼はみちるをあっさりと征服した。他の女の子と違うのは、みちるは彼の甘い言葉に征服されたわけではなく、彼が持つ、圧倒的な力によって屈服させられたという点ぐらいだろう。
 みちるの気持ちを考えず、みちるの懇願を聞き入れず。
 ただ一晩中抱いて――……。
 叶が何を苛立っていたのか知らない。きっと、苛立ちをぶつけたかっただけだろう。いつもならば言葉の暴力に訴えるそれを、性欲に転化しただけなのだろう。
 ただ、いつもと違うのは。
「それで、サヨナラ」
 役目の終わった女の子たちが切り捨てられていくように。
 みちるもまた切り捨てられていく。
 判っていたことだ。彼が残酷なことは。
 自分だけが、わかっていたんじゃないか。
 彼と自分の始まりは、自分が彼の残酷さを見つけてしまったが故だったのだから。
 あぁ、なのにどうして。
 こんなに、痛いのだろう。
 他の誰がみちるを捨て置いても、叶だけは捨てていかないと思っていた。
 目の醒めるような美少年で、素行もよく、人懐こく、誰にでも好かれる彼が、本当は結構いい加減で、甘えたで、めんどくさがりで、好き嫌いが激しくて――とっても、さびしがりやで。
 そういうことを、自分は知っていて。
 心に抱いた傷の形も深さも、お互いだけが判っていて。
 だから、ずっと離れないって、信じてた。
 彼だけは、離れない。離れないで、いてくれる。彼だけは、自分の永遠の理解者だ。
「ばかみたいだ」
 彼だけは、自分を、どこにも置いていかない。日陰の片隅で泣いてると、手を引くために、戻ってきてくれる。
 そんな風に、思ってた。
「馬鹿みたい」
 身を起こす。ふと外を見る。それに理由はない。けれど、見るのではなかったと思った。
 叶が、少女と一緒に校門のほうへと歩いている。叶が伴っているのは、おそらく、噂に聞く新しい彼女とやらだろうなと思った。
 あの彼女も、きっといつか、叶が本心をずっと隠したままだと気づくのだろう。彼の気を引くつもりで、別れたいなどと口にするのかもしれない。そうすると、叶はすぐに受け入れる。取り残された女の子は、二度とあの美しい少年の隣に戻ることはできない。
 自分も、きっと。
 ――喧嘩も、することないんだね。口もきかないんだろうな。お弁当も作らなくてよくなる。時々理不尽に、晩御飯作るために呼び出されたりとかもないんだろう。彼が不機嫌のときに八つ当たりされることもないだろうし、店番をするパン屋に、小腹がすいたと訴えにくることもない。
 それは、なんて。
 あぁ。
 また、胸が痛いよ。
 痛くて痛くて、泣いてしまいそうで。
 それでも泣けずに、身体の中にとどまり続ける涙で溺死してしまう。
 叶たちの姿が夕霞の中へと消えていく。
 自分はただ悲鳴をあげることすらできずに、痛みを抱えて、その場で蹲ることしかできなかった。


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