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わたしのほうだった


「なぁ、つきあわねぇ?」
 そんな風に声をかけられたのは初夏だった。私は首をかしげて彼を見上げた。高い背丈とすこしだけ色を抜いた髪。
 切れ長の目。色の白い、けれど筋肉のついた肩口。
「……は?」
 この人、誰だったっけと思いながら、私は小首をかしげていた。


「付き合えって言われた!?」
 昼の昼食時に、奈々子がこれこそすっとんきょうだと言わんばかりの声を上げた。彼女のお箸から茄子がころりと落ちる。あぁ、その茄子の煮付け私の自信作なんだけど奈々子。
「みたい」
 私は南瓜のてんぷらを口に放り込みながら頷いた。
「みたいって、つきあえっていわれたんだろうが」
「でもなんで私なのかよく判らない。私、相手のひとあんま知らないんだけど」
「三組の吉原か……バスケ部だよな」
「知ってるの?」
「妹尾ほどじゃなくたって、それなりにもてる部類じゃねぇ? なぁ妹尾」
「僕は知らないよ」
 奈々子に会話を振られた叶が、厚焼き玉子を咀嚼しながら即答する。
「男のことなんか興味ない」
「おーおーそうですねお年頃の男の子に興味があったら怖いですねぇ」
 奈々子は大仰に手を振って笑うけれど、私は見ていてはらはらだった。なんか叶、やけに機嫌悪いようにみえるんだ。私たち三人でご飯食べているときの叶は、いつも不遜な奴だ。けれどむっつりとご飯を咀嚼しているだけっていうのもなにか気味が悪い。
「つきあうの?」
 思い出したように叶に尋ねられ、さぁと私は肩をすくめた。まだ、吉原くんに返事はしていない。何せ彼の名前すら知らなかったぐらいだし。
 なんで私なのか、そもそもどこで私を知ったのか、それを聞いてからでもおかしくないと思ったのだ。


「球技大会のときに、がんばってたじゃん。それをみてさぁ」
 吉原君は傍目にみればちょっとやんちゃしているだけの好青年に見えた。
「球技大会……」
 なんか頑張ってたっけ?
 私はなにせ運動神経が悪い。私が参加したのは卓球で、それも一回戦負けというすさまじさだ。頑張りどころははっきりいってゼロだったと思うけれど。
「委員会でさ」
「あ、そっち?」
 そういえば、クラス委員だったということもあって、実行委員になって働きはしてた。けれど頑張ってたというほどだったかどうか。あれが普通だし。
「私、他の人ほどぱっとしないという自覚はあるけど」
 黒髪眼鏡にばりばりの陰鬱さを背負っているような女だという自覚はある。性格も暗い。口を開けば皮肉しかでない。友達の数は一桁。さらにいえば、堂々と友達と胸張って言えるのは奈々子ぐらいなんじゃないか。皆私を友人と思っているのかどうか判らない。
 ……叶は、友達なのかどうなのか、わからないけれど。
 そんな女に、吉原君みたいな男の子が声をかけてくるという事実はまさしく青天の霹靂だ。
「いいんだって」
 吉原君は手を振った。はにかんで笑う姿に、なんか可愛らしさを覚えたのはここだけの話。


 放課後の廊下は人通りが少ない。窓の外からは部活に勤しむ学生の喧騒が響いていた。
「いいのかよ。もしかして付き合っちゃうかもよ?」
 奈々子の問いに、道の先をいく少年の背中は、苦笑にか揺らいだ。
「関係ないっていってるじゃん?」
「本気で?」
「本気で」
 と、いうわりには先ほどからいつも彼が纏う余裕さはない。奈々子は立ち止まり、肩をすくめた。
「じゃぁなんでそんなに苛立ってるんだよ妹尾」
「苛立ってないっていってるじゃん佐々木」
 立ち止まり、振り返った妹尾の表情は不細工だ。こんな表情、多分クラスメイトたちの前ではしないのだろう。
 普段、妹尾叶という少年は、どこまでも朗らかで、爽やかで、人懐こく、甘え上手で、誰からも好かれるという少年の演技を徹底している。
 どうしてそんな演技をするようになったのか、奈々子は知らないけれど。
 みちるが何故、血のつながりもないパン屋に居候して暮らしているのか知らないのと同じように。
「いいかげんにしてよササキナナコさん? 僕怒るよ。いい? あいつがどこの誰と付き合おうが僕が干渉できることでもないし、しったこっちゃない。いいじゃん付き合えば。女の子に評判のよろしいやつなんじゃないの? 僕はしらないけど」
「干渉できたら気にするのかよ」
「つっかかりすぎ」
「別に。アタシは知りたいだけだよ。普段のみちると逆の立場になったあんたがどんな気分なのか」
 妹尾は最近はフリーみたいだけれど、よく女の子とお付合いというやつをしていた。今は逆の立場だ。
 そんなとき、この男はどうするのだろうと、奈々子は思うのだ。
 この、馬鹿馬鹿しいぐらいに独占欲の強い男が。
 険悪な雰囲気を打ち破ったのは、聞き慣れない男の声だった。
「……え!? お前あのネクラ委員長に告ったの!?」
 妹尾と奈々子は思わず顔を見合わせて、声の響く隣の教室をのぞき見た。夕焼けの差し込む教室に男が二人。机に腰掛けて会話をしている。
 一方は奈々子も知らぬ少年だが、もう一方は件の吉原少年だった。
「んーまぁさぁ。彼女欲しかったし」
「そんなんだったら別に普段から告ってくる女でいいじゃん? お前もてねぇわけじゃねぇんだしさー」
 吉原の言葉に、友人と見られる男はどうにも納得いかないようだった。散里みちるは、妹尾とは逆の意味で目立つところのある少女だ。委員会であちこちに出張っているし、顔だけは知っている人間が多い。
「ま、そうかもしれないんだけどよ」
 こっそり隠れているこちら側と、友人が息を詰める中、吉原少年は告白した。
「最近よってたかってくる女、どうして私を見てくれないのとかってぎゃーぎゃうるせぇし。その点、あの女自己主張しなさそうじゃん? それにさ、意外に身体つきがエロいんだよね。この間のプールで見たときから目ぇつけてたんだけどさー」
「あぁ」
 友人らしい少年は笑った。
「そういうことな」
 そういうことな、じゃないだろうが。
 奈々子は男たちの会話にうんざりしながら眉根をしかめていたが、次の瞬間、驚愕した。
 がらっ!
『え?』
「妹尾!?」
 無言だった妹尾が突然教室の扉を開けると、中へと踏み入ってしまったのだ。
 妹尾の傍にいたはずの奈々子が反応できぬなら、無論教室で彼の存在を知らずに会話していた二人組に反応できるはずもない。彼らは当惑の表情で妹尾を見据え、そして吉原少年に至っては、次の瞬間机を巻き込んでその場に転倒していた。


「何で喧嘩なんかしたの?」
 派手に喧嘩をやらかして、三日間の停学中だなんて、先生たちは度肝ぬかれてた。
 何せ素行不良の少年が喧嘩をしたのではない。教師にもクラスメイトにも彼を好かないものなんていないんじゃないかっていうぐらいに人気者の妹尾叶が、人間関係として何も繋がりなさそうな同学年の生徒に喧嘩を吹っかけたのだ。殴り合いで互いにアザだらけになり、今日も学校が終わってから様子を見に来た私と奈々子の前にいる叶は、酷い有様だった。
 喧嘩もさることながら、相手の名前を聞いて、さらに頭を抱えたくなった。叶が殴りかかった男の子は、あの吉原君だったのだ。
 喧嘩の一部始終を見ていたらしい奈々子に今朝も詰め寄ったけれども、こいつに口止めされているらしくて何も言わない。仕方なく、今日の分のノートと配布物を携えて、叶の家に寄ったのだ。
 数年前まで賑やかだった家は、皆が結婚したり就職したりで家を出て、今は叶一人が住んでいる。本当は父親も住んでいるはずだけれど、仕事のせいでほとんど寄り付かないみたいだった。
「関係ないじゃん」
 叶は鼻を鳴らして、布団の中にもぐりこんだ。完全に、ふて寝の態勢だ。
「叶」
「関係ないっつってるだろ」
「……妹尾。アンタいい加減に」
「奈々子は黙って」
 これは、私と叶の問題だと思うんだ。
 うぬぼれでもいい。でも、叶が喧嘩なんてしでかしたのは、絶対私が関係していると思うんだ。
 私に関係している話ほど、こいつは関係ないっていって、突き放すんだ。何年の付き合いだと思ってるんだろう。判ってるよそれぐらい。
 奈々子は嘆息して、お茶を汲んでくるといって、部屋を出て行った。しばらくして聞こえてくる、階段を下りる音。
 叶は私に背を向けたまま、答えようとはしなかった。私は嘆息して立ち上がった。古い畳が、きしりと音を立てる。
「じゃぁ私、吉原君に訊くよ」
「あいつに訊いて答えると思うのかよ」
「答えるでしょ?彼女になら」
 ばさっ、と
 勢いよく、布団が跳ね上げられる。あぁ、ようやっとこっちを向いた。
「付き合うの?」
「関係ないでしょ」
「みちる」
 さっきと同じ押し問答。今度は逆の立場で繰り返している。
「じゃぁ答えてよ。何で、喧嘩なんてしたの?」
 叶は、彼の兄弟に比べて、あまり喧嘩が得意ではない。皆何かしら武術の心得があるのに、叶だけサッカーに明け暮れて、結局何も学ばなかったのだと聞いている。
 まぁ、喧嘩が得意でないといっても、一般人に比べれば華奢にみえて十分腕っ節は強いみたいだけど。今回の喧嘩も、酷い有様であるけれど、一応吉原君とそのご友人、あわせて二人相手に勝ったみたいだし。
「嫌だった」
 叶は、嘆息しながら答えた。
「あいつが、嫌だった。それだけだ」
「本当に?」
 こいつは、嫌だったなんて刹那的な感情に引きずられて、喧嘩をふっかけるような男じゃない。
 だってどこまでも、頭がいいのに。
「あいつはやめときなよみちる」
 叶が、私に向き直って言った。
「相応しくない」
「……私が、吉原君に?」
「吉原が、みちるに」
「……どういう意味ソレ?」
 今度の問いに対しては、叶は沈黙を守る。私は立ち尽くしたまま、口元を引き結んだ。
 沈黙の帳が下りて、しばらくしてから、私は言った。
「あんたの言ってる、意味がわかんない」
「わかんなくていいよ。ただ、相応しくないって思ったから、あれはだめだ」
「じゃぁ誰ならいいのよ。どんな男だったらいいわけ? いっとくけど、アンタがとっかえひっかえ女の子と付き合ったりするように、私だって誰か彼氏を持つ権利があるんだよ?」
 彼氏なんて、持てるとは思えないけど。
 吉原君のことは、きっと私にとってもう二度とないかもしれない機会だったかもしれないんだ。
「なんで駄目だっていうの。きちんと理由も話さないで。何様のつもりよ」
「……でも駄目」
「あのねぇ」
 私は思わず天井を仰ぎ見て呻いた。こいつ、私の父親にでもなったつもりなのかな。
 ふと、私はスカートに感じる違和感に視線を落とした。プリーツスカートの裾を、叶の手が握り締めている。
「叶、ちょ、セクハラ!」
「馬鹿。いいから、座りなよ」
「なんで。私もう帰る。忙しいんだって」
「みちる」
 思いがけず力強く呼ばれて、私はたじろいだ。真っ直ぐな叶の眼差しが私に向けられている。やめてそんな風にみないでよ。自覚してないの? アンタの目は時々真っ直ぐすぎて、胸が痛くなるんだよ。
「ここにいて」
 甘えたな男の懇願。
 誰だ、こんな甘えん坊の男を、この世界に作ったのは。こんな綺麗な男に潤んだ眼差しで懇願されたら、誰だって首を縦に振らざるを得なくなる。いつだってそう。この男は、確信を持って、こんな眼差しで相手に懇願するんだ。
 私だって。
 耐えられないよ。
「……判ったから、スカートから手を放して。痛んじゃうよ」
 私は閑念して、ぺたりとその場に腰をついた。ベッドの上に横たわる男は、スカートの裾の代わりに私の手を握って顔を伏せる。視線が外れて、私はほっとした。ひやりとした叶の手が、私の手を包んでいる。
 あぁ、何時の間に。
 こんなに、こいつの手は大きくなってしまったんだろう。
 吉原君とこいつの喧嘩ほどでないにしろ、取っ組み合い殴り合いみたいな喧嘩だって、つい最近まで何度もした。まだ、こいつと会ったばかりの頃はそれも頻繁で、そのころは私のほうが身長が高くて、手の大きさだって変わらなかった。
 それがいつの間にか。
 背が伸びて。骨格が太くなって。声が変わって。眼差しも、男の人になってしまった。
 でも、子供っぽくて、わがままで甘えたで面倒臭がりなところはそのまんまで。
 こいつは言った。
「おいて、いかないで」
 私は泣きたくなった。
 つっ伏して、泣きたくなった。
 何言ってるの叶って。
 私が男と付き合うことが、叶を置き去りにすることに通じるのなら。
 いつもいつも、置き去りにされてきたのは。
 私のほうだったっていうのに。


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