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96 責任感

 皇族一家の居館にして、幼馴染みの両親たちの茶飲み場でもある奥の離宮の一室。戸を開け放った濡れ縁から庭が銀糸のような雨に濡れそぼる様を目にできるそこで、文机に向き合う少女に少年は付き合っていた。
「そんなに根を詰めなくてもいいと思うけど」
 少女の幼馴染を代表して少年が囁いた。彼は少女とひとつだけ年下で、あとの幼馴染はたいていもう少し年の差がある。まだ身分の垣根少なく遊んでいた頃は少女と少年のふたりが年少の面倒を見ていた。というよりも、ちびたちを巻き込んで広い広い庭や裏庭を駆けていた。
 十五となった少女は即位に向けて勉学に励む日々だった。少し、励み過ぎなほどだ。早朝に起床し、付けられた教師たちのもとでまなび、文官武官に付き添われて街の視察に。父親の仕事も雑用を手伝いながら学んでいるようだった。両親と食事を取り、夜には少女を呼ぶ名家の者たちへの顔出し。礼儀作法、そして一日の復習。
 少年たちも皇帝宰相および左右ふたりの冢宰たち、ひいてはその側近たちの子息である。共にできる勉学は父たちの計らいで机を並べているが、野山を駆け回ったり季節折々の花々を愛でたり悪戯をして大人たちから叱られたりということはめっきり減った。
 いたずらは減ってくれなければ困るが、と父は言い置いた。
 妃殿下はもう少し、余裕というものを持った方がいい。
 それは少年の親世代共通の想いらしい。少女の両親である皇帝皇后両陛下さえ、少女には勉学はほどほどでいいと思っているようだった。彼女が勤勉で生真面目がすぎるからこそだろう。たとえは少女が放蕩であったとしたら、くどくどと説教するに違いはない。
 それでも苦渋と辛酸をなめてきた世代として、子らに幸福に満ちた世界を用意したいと奮闘してきた者たちとして、日がなしかめっつらで教師や教本と向き合い、遊ぶ暇なく実地訓練とばかりに視察について、つい先だっては救貧院の長の役を母からもぎ取ってきた少女に、もう少し、余裕のある日々を、と望んでいるようだった。
 親の想いはともかく。少年の目から見ても少女はやや意固地になっている風に見えた。母譲りの白皙の額に皺を刻み、可憐なくちびるをつんと突き出して。ときおりしばたく瞳は充血して潤んでいるようでもあった。日に日に彼女は机に噛り付く時間を増やしていて、少年を含む幼馴染み皆が心配していた。
「なぁ……」
「オミ」
 呼びかける少年の口をふさぐように、少女がするどく呼ばわった。
 彼女は顔を上げて神妙に言った。
「わたしには、父上たちの半分の才覚もないのよ」
「半分ってことはないよ。……同じじゃないのは認めるけど」
 なにせ親世代の有能さは自分たちには眩しいというよりも畏怖すら抱かせる類のものだ。学べば学ぶほど、どうすればあのようになれるのかと思う。齢十五にもならぬ身で悟らなくともよいとは思うが、それでも彼らが今の自分たちと同年の頃に記した書き付けなどを読めば、才能の差はうんざりするほどよくわかった。
「わたしに父上たちみたいに、新しいものを生み出していくことはできないわ。けどわたしは、今の、国を、私の代で衰退させたくない。父上たちはこの国がずっと幸せであるように願ってる。わたしもそう願ってる。わたしには父上のように自分の代で苦しんでいるひとたちを救いあげることなんて不可能かもしれない。だからわたしはせめて、父が作り上げた理想をそのまま、次の代に渡したいの」
 それって一番難しいことなんじゃないのか、と、いう台詞を少年は呑み込んだ。
 復興が容易だとは思わない。けれど、平和の維持こそ、どの時代のどの国のどの王もなかなか成し得ぬことであったと少年は歴史で学んでいた。
「それをしたいのに、今のままの私じゃだめだわ。もっと学ばないと。もっと」
 下唇を噛む少女の瞳からほろほろと涙がこぼれて、少年はため息を吐いた。取り出した懐紙を少女に差し出す。ありがとう、と少女は鼻を啜って微笑み、また表情を改めて机に向かい始めた。
 少年は後ろ手に手を突いて、外を見た。春を告げる細い雨はぬるく、ちいさなころはあの水の紗幕の中を泥だらけになりながら少女と駆けて遊んだ。懐かしい日々。今だって望めばすぐに戻れる。皆で少女の手を引いてあの中に飛び込めばいい。
 よく手入れされた庭の生垣から突き出る黒く細いうねった幹が広げる枝にはいくつかの白い蕾があった。もう咲いていてもよい頃だろうに頑なに枝の先にしがみついているそれを眺めていると、おみ、と少女の囁きが聞こえた。
「なに?」
「……わたし、お父さまたちが一生懸命立て直した、この国が好きなの」
「……うん」
「いっつもみんなが陽気に笑っている、そのままであってほしいの」
「うん。でも」
「なに?」
 あなたがわらっていることも、父たちのつくった幸せな国の中に含まれている。
「毎日、そんな顔してたら、父さんたち、悲しむよ」
 少女が少年を見つめた。輪の中に急に誘われて戸惑う子どもみたいだった。
「この庭の梅は寝坊してるけど」
 少年は筆記具の先を墨壺に浸しながら言った。
「裏山のは見ごろだよ。白と、桃色と……八重もあったよ。これ終わったら、見に行こうよ」
 少女は逡巡したのち、うん、と頷いて、小さく微笑んだ。