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87 あわいの国

 ペコを捨てなさい、と、言われた。
 ペコはふかふかで大きい。くりっとした目が優しくて、街の片隅に捨てられていたのを僕が拾って育てた。
 ううん。僕が育てられたっていうほうが、いいのかもしれない。ペコは渡りで忙しい僕の父さんや母さんの代わりに、僕の面倒を見て、荒野で野宿するときも僕を守ってくれていた。
 けれど大きくなるに連れて普通の成犬とは少しずつ違ってきたペコから、父さんも母さんも怯えた目で見るようになっていった。
 最初はこげ茶だった毛は、今は黄金色。大きな目も色が混ざり合って水溜りに写った虹みたいだった。牙も普通の犬のそれよりも大きく鋭い。犬、というよりも狼。狼、というよりももっと獰猛な獣に見えた。
 だけどペコは優しいんだ。僕を変わらずずっと守ってくれる。ペコを捨てるなんてとんでもない。
 だから、ペコと一緒に逃げた。



 僕とペコは荒野を渡る。北へ向けて、走った。北を選んだのは、黒い森が見えたからだった。そこはペコを拾った街の傍に広がる森によく似ていた。
 森に向けて走って、野宿して、また走って。そうするうちに雪が降ってきた。僕はペコの身体に包まれて眠った。ペコには毛布をかけてやった。けれど寒さが増してきたころ、僕らはもう引き返せなくなっていた。僕らは、雪深い森の中にいた。
 こんな風になるのなら、ペコを自由にしてやればよかった。僕はいいけど、ペコが。ペコは強靭な身体で僕を守ってくれていたけど、だんだん弱っていくのが可愛そうだった。多分僕がいなかったら、ペコはもっと早くに森を抜けられたんだ。
 僕とペコがすっぽり入れるすっごく大きな木の虚(うろ)に入って雪を凌ぐ。
 ペコが時々外に出て吼える。僕は毛布に包まって虚の中に横たわり、ペコが出て行くのを見送る。もう帰ってこなくていい。どこか逃げてと思うのに、ペコは僕を見捨てない。すぐに、帰ってくる。僕を温める。
 何日目だろう。もう食べ物も尽きて、弱るばかりで。
 そんなときだった。
「あー、生きてる生きてる」
 僕の頬に、人の指が触れた。



 僕を助けたのは、白金の髪を持つ僕よりも少し年上の男の子だった。
 男の子は僕を背負い、ペコをつれて山を下った。そこには、街が広がっていた。
 門近くの大きな家に入り、雪を払い落としながら彼は叫ぶ。
「かあさーん、湯、沸かして! お湯!」
「何人に命令してんの最初はただいまの挨拶が最初っていつもいってるでしょ!」
 少年の叫びに、女の人が怒鳴り込んでくる。胡桃色の目と髪をした女の人だ。
「まったくあんたはそういう人に遠慮なく命令するところばっかり馬鹿王子に似て!」
「母さん、何度もいうけど、人に遠慮なく命令するのは立場的に仕方がないし、遠慮してたら埒があかないよ。母さんにするのは命令じゃなくて頼みごと。あと、王子は僕。それよりもお湯」
 そういって男の子は背負っている僕を軽く揺すった。
「あ、あれ? なぁにこの子」
「雪山の中で凍えて倒れてたんだ。まだ凍傷になってないけど、早くお湯沸かしてあげてよ。リジーがアマランス迎えに出てるからすぐ来ると思うし」
 早く、とせっつかれて男の子の母親らしい女の人は玄関広間の奥へ消えていく。男の子は完全に雪を落としきると、階段を上った。雪をふるふると払い落としたペコが、その後に続いて歩く。



「ここ、どこですか?」
 朦朧とする意識の中、僕は尋ねた。男の子は母親が持ってきたお湯で僕の身体を丁寧に拭き、温めて着替えさせると、僕を寝台に横たえた。今、男の子は暖炉に火を入れている。
「山の麓の国だよ。ガヤっていうところ。君は運がよかったね。他の雪山だったら多分助からなかった」
「……他の雪山だったら?」
「君のそこの犬、ペコっていうの? キユがその声を聞き取って、遭難した子がいるから助けてくれってアマランスに言ったんだ」
「……きゆ、あまらんす」
「この国の守り神みたいな人。キユがその世話役。眠って。しばらくしたら重湯を持ってきてあげるから」
男の子が僕の頭を撫でる。僕は言われるままに眠った。布団の中は久々だった。



「勝手に人を拾ってくるな俺の許可を取ってからにしろ馬鹿息子が」
「そういうあんただってジン拾ってきたりしてたしリシュオもあのアホ拾ってきたりしてたし人を拾ってくるのはあんたの血筋でしょ伝統でしょ」
「俺はこっちと話してるんだっ!」
「ああぁらそう? なぁに図星指されたからってムキになって悔しかったら反抗してみなさいよ仕事サボってるしなぁに油売ってるわけ?」
「お前だってここで油売ってるだろうが仕事して来い!」
「今は休憩時間なんですー」
「あぁいえばこういう!」
「あの二人は放って置いて。いつもあぁだから」
「……はぁ」

 宿の女主人とその夫、と紹介された二人は、僕の目の前で延々と喧嘩を繰り広げている。旦那さんの傍では、年若い男の人が、疲れたように溜息を吐いていた。
 こんこん、と軽く木の板を叩く音がして、扉が開く。
 そして現れた人に、僕は息を呑んだ。
 
 その人は――人ではないのかもしれない。

 肌の色が、見たこともないほどに白かった。誰も踏み荒らしたことのない、雪の平原のように青白く反射する白。瞳は細く、凍った湖のような青だった。まっすぐな髪も青みを帯びた銀で、風もないのにさらさらと揺れている。高い背。細い身体。四肢はおんなのひとのそれだったけれど、明らかに……。
 彼女の足元を、白い狼が駆け抜けた。それに反応して、ペコがすっと立ち上がる。ペコと白い狼は鼻先をくっつけあって、挨拶しているみたいだった。その傍らに、あの女の人が青銀色の髪を揺らして膝を突き、ペコの毛並を撫でる。
「あぁ、ディスラの子か。ようこんな場所へ来おったぇ。遠かったであろ」
「アマランス、ディスラの子って何? 普通の犬とは違うよね。キユとも違う」
 男の子の質問を受けて、女のひとが顔を上げた。彼女が噂の「アマランス」さんみたいだった。
「化石の森近くで生まれた子らは、たまさか魔の洗礼を受ける。ディスラが森の奥に閉ざされてしもうてからは、頓に数が増えてきておるがね」
「噂に聞く、ディスラの畸形児ってこと?」
「タダヒトの観点から見ればそうじゃろな。妾にしてみれば、単に主神の祝福を受けただけなんぇ。お主の父と同じように」
 アマランスさんは薄い唇をにやりと曲げて、男の子の父親たるひと――さっき、宿の女主人と喧嘩していた男の人は、不快そうに眉根を寄せた。改めてみると、その人も普通と少し違っていた。真っ白なのだ。全体的に色素が薄い。

 白人(アルビノ)。夜の世界でしか生きにくいひとだと僕が知るのは、この少し後のことだ。

 アマランスさんは立ち上がり、僕の傍にやってきた。

「顔をお見せ。……あぁ、怪我はそれほどでないね。ペコにようお礼をいいや。あれが魔術でお主を守ったんぇ」
「……ペコ、魔術が使えるの?」
「人にしか魔術が使えぬというのは人の傲りよ。魔は元々ヒトガタ以外のものであった。非力な子らに、主神はその血潮を分け与えた。祝福として」
 魔術というものを、僕はほとんど知らない。あまり使っている人すら見たことがないし、人だけしか使えないものだとも思ったことがなかったのだけれど、アマランスさんはそんな風に説明した。
「名前は?」
「えっと……マハです」
「妾はアマランス」
「僕はアスベル。よろしくマハ」
 男の子が僕に向かって手を差し出す。握り返したそれは、温かくて、柔らかい手だった。
「改めて紹介するけど、あっちは僕の両親。モニカさんアレクさんって呼んでやって」
「は、はい! よろしくお願いいたします……」
「あっちは父さんのお目付け役のキニス。僕の従弟」
 困ったような顔をしていた男の人は、微笑んで僕に頭を下げた。



 アスベルさんの言いつけで、ゆっくり体力回復に努めた僕は、まずはモニカさんのお宿でお手伝いとして雇ってもらえることになった。
 掃除や給仕を、おぼつかない手つきで手伝っていると、アスベルさんが時々様子を見に来てくれる。後で知ったことなんだけれど、アスベルさんはこの国の王位継承者――つまり、はじめに紹介してもらったアレクさんは、実は王様だった。
 王妃様のはずのモニカさんが、元々のおうちを継いだからとはいえ、なんでお宿を経営しているのか、すごく謎だけど。



「働くのが好きな人なんだよ」
 お昼ご飯を一緒に食べながら、アスベルさんは微笑んだ。
「僕をもうけても、僕の両親は別々に生活している。けど、誰よりも愛し合ってる夫婦だと思ってるよ。子供の欲目かもしれないけれど」
「お二人って、一緒に過ごさないんですか?」
 モニカさんは夜遅くまで働いているし、それはアレクさんも同様で。王様はアスベルさんと同じようによく宿を見に来てモニカさんと口喧嘩(アスベルさん曰く、愛情の確かめ合い)をしているわけだけれど、僕は二人が一日寄り添っている姿を見たことがない。
 夜になってもモニカさんは一人で寝ているし、アレクさんだってそうだろう。
「一緒に過ごすこともあるよ。けれどきっと父さんと母さんを結びつけているものは、愛情以外のものもあるんだろう」
 揚げた面袍を二人でもそもそ食べて、仕事に戻る段になった後、アスベルさんが言った。
「マハ、今日の夜は僕の家に遊びにおいで」
「え?」
「体調も万全じゃないのに、いきなり働き始めて疲れたでしょう? 明日はお休みにしてもらえるよう母さんに言うから、今日は僕のところにおいで」


 僕はアマランスさんに手当てをうけて眠ったあと高い熱を出し、しっかり目覚めるまでにまるっと四日かかっていたらしい。起きてからはおいしいご飯をたくさん振る舞ってもらって、すぐに働き始めることができた。というか、こんなに休んでいいって言われたのは初めてだった。身体がだるくても、目の前がくらくらしていても、父さんたちの手伝いをするのは当たり前だったのに、こんなに休めっていわれると、変な気がする。
 あともう一つ、変なことがある。
 働き始めて今日で五日目。
 なのにこの国は、ずっと夜のままだった。



「朝が来ない国なんですか?」
 アスベルさんが言う、僕のおうち、とはつまり、森に食い込むかたちで存在する石造りのお城だ。彼のお部屋、僕が五回転ぐらいできそうな広い寝台の上、隣に寝そべるアスベルさんに僕は尋ねた。
「いいや、来るよ。六日に一度だけなんだ。この国は長命種の祝福を受けた国なんだ。だから魔の影響がほかの国より少し濃くて、不思議なことが起こる」
「ちょうめいしゅ?」
「アマランスだよ。彼女は僕ら人のことを、タダヒト、という。長命種は僕らよりうんと内在魔力が高くて……えぇっと、内在魔力は知ってる? 目の色にその度合いが現れて、傷の治りかたが早かったりとかするの」
「主神さまの奇蹟?」
「あぁそうそれそれ」
 珍しい色の目をしているひとは、主神さまがたくさん奇蹟を与えてくださるのだという。だから死ににくくて、そういう風に生まれた子供は、とても喜ばれる。
 僕の目の色も、比較的珍しいらしい。だから、今日まで死ななかった。
「アマランスたちはもちろん傷の治りも早いし、魔術に長けていて、寿命がとても長いんだ。あれでもう、何百年も生きてるんだよ」
「えぇえぇえええ! そうなんですか?」
「うん。正確な年齢は教えてもらえないんだけど。シュレディングラードが建国されたときから生きてるんだって」
「しゅれでぃんぐらーどって、氷の国?」
「そう。一つ山挟んだお隣さんだから、ここにいればまた行く機会もあるよ」
 このガヤは、シュレディングラードへ向かう街道沿いの国で、だから商隊の人たちが頻繁に立ち寄るのだと、アスベルさんは説明してくれた。モニカさんのお宿は、その商隊のひとたちの骨休めの場となっているらしい。雪がひどいときは、一月程度滞在することもあるそうだ。
 僕が助けられたときも雪の日で、目覚めても雪が降っていて、働いている最中もとにかく雪、雪、雪。
 僕が生まれた土地は、雨が降れば珍しいぐらいの土地だったから、驚きだった。世界には、いろんな国があるんだなぁ。
「そういえば、アスベルさんとアレクさんって、アマランスさんに似てますね」
 耳がとがってて、ぴこぴこ動いたりするアレクさんのほうが顕著だけれど、アスベルさんも淡い色をしていて、瞳の色も不思議な光彩だった。アスベルさんは枕に顔を付けて、ううん、と唸る。
「僕の血筋には、長命種の人の血が入ってるんだ。父さんはその先祖がえりみたいなもので……僕も少なからず影響を受けてる。僕は太陽の下でも平気だけど」
「そうなんですか」
「今日会ったリシュオ叔父さんは普通だったろう? 父さんはあの造りのせいでいろいろあったみたいだし、アマランスが面に出てくるようになったのも僕が生まれる少し前のことだ」
「そうなんですか……」
 つい、あふ、とあくびしてしまった僕に、アスベルさんが苦笑した。
「眠い? マハ」
 いいよ、お休み。アスベルさんの手が僕の頭を撫でた。そんな風にしてもらったことは今まで誰にもなくて、僕はびっくりしながらも、あまりの気持ちよさにすぐに寝入ってしまった。



 翌朝、僕はアスベルさんに揺り起こされ、寝ぼけ眼のまま窓辺の方へひっぱられた。窓にはとても分厚い幕が引かれている。他国では太陽の光を遮るためのそれは、この国において寒さを防ぐものだった。絶え間ない雪の冷気は玻璃を通して容赦なく部屋に入り込む。アスベルさんは紐を引っ張り、幕を勢いよく開けた。そして、僕の眠気は一気に吹き飛んだ。
「太陽が……」
「昨日説明したよね。六日に一度上るんだ。おいで」
 アスベルさんは僕の手を引いて露台に出た。雪は止み、空は青く晴れ渡っていた。それは、僕がペコを連れて逃げ回り、森に入り込んでしまって以来――ほぼ一月ぶりに見る青空だった。
 太陽の光に照らされた国は、きらきらと輝いていた。宝石みたいだった。誰が早起きして、雪を掻いたんだろう。馬車の轍が残る街道は踏み固められて、ところどころ石畳が覗いている。それに沿って僕と変わらない年頃の子がはしゃぎ声を上げ、駆けまわっていた。鋭い屋根をした家々が集合し、その周囲を緑深い森が固めている。
「君はまだきちんと見たことがなかったね。ご覧。これがガヤだ」
 アスベルさんが僕に言った。
「小さな国なんだ。ここから見える範囲が国のすべてだ。街は城下町だけ。森の中に時々集落がある程度」
 たた、と足音が聞こえて、ペコが僕の足にすり寄った。毛皮が、温かい。僕はその綺麗でたまらない、黄金の毛並を撫でた。
「父さんと母さんはね、この国を小さいながらも皆の笑いの絶えることのない、豊かな国であってほしいと働いている人たちだ。平和的に暮らす心づもりなら、どんなものでも迎え入れて安らげる場所にしようとしている人たちだ。愛情もそうだけれど、その心が、僕の父と母を繋げている」
「……アスベルさんも、そうなんですか?」
 彼は微笑み、そして表情を引き締めた。
「マハ。君がどんな想いで逃げ出してきて、もう帰るところもないことを僕は知っている」
「え?」
「ペコから聞いている」
「……ペコのいうことがわかるの?」
「アマランスはわかる」
 僕はペコの毛に、僕の身体を押しあてた。大きくて……温かい身体。
 僕の父さんと母さんは、渡りで忙しくて、いつも、苛々していて、時々戻ってきては、僕にそれをぶつけた。
 僕はぶつけられても、主神さまの奇蹟のせいで、それほどひどいことになることがなかった。
 だから。
 ペコは大きくなるにつれて、僕の父さんと母さんに、牙をむくようになった。
「ここで暮らすといいよ。ここならペコも普通に過ごせる」
 普通の犬とも狼とも、少し違うペコ。
 見るからに獰猛で――でも実際はとても優しいのに。
「ここは僕の両親たちの尽力あって、言い方悪いけど……畸形でも、受け入れてくれる場所なんだ」
 何せ、王が普通と違うからねと、アスベルさんは皮肉る。
「母さんも手伝いが一人欲しいと言っていたところだから、きっとこのままずっとマハが手伝ってくれたら助かるよ」
「本当に?」
「うん。僕も遊び相手が欲しかったんだ」
 何せ一応、王子だから、みんな遠慮するんだよね、とアスベルさんは少しさびしそうだった。
 少し置いて、彼は僕の手を握って言った。
「改めて……ようこそガヤへ。ここはひとと獣とそのあわいに住むすべての者たちの、ふるさとになりうる国だよ」


 この国では誰もペコを捨てなさいって言わない。
 一緒に生きていても許される国なのだと、アスベルさんは誇らしげに言ったのだった。





「それにしても前にも言ったけど本当に血筋は争えないっていうか……何その拾い癖」
「マハはいい子でしょ、母さん」
「そりゃぁね。助かってはいるわよ。もうちょっと大きくなったら力仕事とかも頼めそうだし」
「母さん、マハにそんなことさせないでよ」
「え? なんでよ」
「マハは女の子だよ」
「……え?」
「かわいいでしょ。間違えないでよ」
「え?」
「かわいいでしょ」
「……えぇ?」