BACK/TOP/NEXT

15. 出立前

 カレンダーにばつ印をつけていくことが日課になった。
 ベッドの上では少女が背を向けて密やかな寝息を立てている。叶はサインペンのキャップを閉めて、部屋の空間を占領するダンボールの上に放り投げた。乱雑に詰められた私物の中に、サインペンがぽとりと落ちる様子を見届けて、少女の横にもぐりこむ。
 華奢な身体を背後からそっと抱き寄せて、窓を見上げる。
 蒼い空を桜の花弁が横切っていた。



 みちるは菓子作りを学ぶためにフランスへ。叶は経営を学ぶために東京へ。その選択を悔いたことはないが、寂しくないといえば嘘になる。何せみちるという少女は、九つのときに同じクラスに転校してきて以後、もっとも傍にいた存在なのだ。
 決して仲がよかったわけではなく(むしろ同属嫌悪として憎みあっていたといえる)、飽きるほどの口論を繰り返し、趣味も何もかもが異なっていたが、みちるは叶にもっとも寄り添い続けた少女だった。
 離れようと離れようと互いを見まいと努力した日々が馬鹿らしく思えるほどに、今は一時も離れたくなかったし、甘やかしたかったし、まだまだ見せたいものもあったけれど、仕方がない。菓子作りの道は己を蔑ろにし続けたみちるが初めて選び取ったものだから、純粋に応援してやりたかった。それに兄たちの姿をみて、好いた女を支えるためには経済力云々といった力が必要だとわかっていた。将来みちるがどんなことをしたいといってもかなえてやれるだけの力が欲しかった。ならば、それを得ることができるように、学ばなければならない。
「あと一週間だね」
 いつの間にか起きていたらしいみちるは身支度を整えて、カレンダーを眺めていた。
「叶、起きてるなら返事しなさいよ」
「だるい。ねむい」
「あのね……もう、いいけど」
 私だってだるいよ、と言って、少女はベッドから立ち上がる。ほんのりと赤く染まった彼女の頬を見て、叶は笑い出したくなった。むっとした様子でみちるは枕を抜き取り、状況を把握する間も与えずに叶の頭に押し付ける。
「ギブ! ギブ!」
 枕を押しのけながら叶は叫んだ。
「なにすんだよ息苦しいじゃん!」
「息苦しくしてるんだもの」
「ひでぇ」
「あんたが私にやることと比べればすごく可愛いと思うけど?」
「へぇ。ナニひどいことしたんでしょうか僕。もっと酷くしようか?」
 もっかいする? といったら、今度は拳で直に頭を殴られた。容赦ない。
「どんだけ元気なのよ!」
「いや、だるいっていってるんだけど……」
「さいてい!」
「健全な十八歳としてはすごくまともだって」
 あと、一週間しかないのだから。その後は長い間聖職者の如き生活になる。今のうちに、と思うのだけれど、どこか潔癖なところのある少女には正気になると受け入れられないらしい。
 叶は身を起こして欠伸をした。みちるが畳の上に落としていた衣服を拾って投げてくる。ベルトの金具が肋骨に当たって痛かった。もう少し彼女も、配慮してくれればいいのに。
 服を身につけて軽く伸びをする。少女はまだ、カレンダーを見つめている。その身体を背後から抱きしめる。
「叶」
「ん?」
「かなえ」
「何?」
「かなえ」
 少女は叶の名前を繰り返す。そのちまちまとした作りの手が、叶の手をぎゅっと握る。
 ややおいて、少女は言った。
「あのね、連れて行ってほしいところがあるんだ」



 自分たちに残された時間はあと一週間。もちろん、長い目で見ればそれは大げさな言い方なのかもしれない。けれど叶も、そしてみちるも、人の絆というものは血が繋がろうがともに長らく暮らそうが、とても脆く、当人達にそのつもりはなくとも、些細なすれ違いで途絶えてしまうこともあるのだと知っていた。だから惜しんだ。二人でいることが当然である日々。それが一旦の終わりを見せる。自分たちに残された時間は、あと一週間。
 その間も、二人だけでいられるわけではない。パン屋の少女は商店街の中では誰もと顔見知りの有名人で、杖をついた老人から今年小学校に上がる子供たちまで、しばしの別れの挨拶に訪れる。叶はその様子に歯軋りしつつ、大学から入学前に与えられた課題をこなしたり、父の経営するクラブの顧客への挨拶や、母方の一族への報告回りに忙しかった。互いに、引越しの準備に追われてもいた。
 みちるが出国する日、叶もそのまま同じ空港発の国内線に乗って東京へ向かう予定でいた。だから前日は、猫招館を貸しきって、ちょっとしたパーティーをする。そんな窮屈な日程で、ぎりぎりになってみちるが旅行を言い出すなど、叶には驚きだった。



 みちるが指定した場所は、今の町から何県も跨いだ先にある、日本海に面した町だ。夏は海水浴や釣りの客で賑わうだろうそこは、今は何があるというわけでもなく、卒業旅行に選ぶような場所でもない。けれど連れて行ってほしいといわれたから、慌ててチケットと民宿を手配して(ビジネスホテルなどというものは存在しなかった)、予定を調整する。急だったせいで、肝心の日程はそれぞれがフランスと東京に出立する二日前に出て、パーティー当日に戻るという強行軍となってしまった。
「ごめんね」
 と、みちるは言った。特急の指定席で、流れる景色を眺めながら。
「何で?」
 首を傾げた叶に、みちるはなんでもないと頭を振って微笑む。叶は彼女の頭を抱き寄せた。人目あるところで触れ合うことに、彼女はよく抵抗を示すのだけれど、この時ばかりは大人しく重心を叶に預けた。その華奢な肩が小刻みに震えていて、叶はそっと少女の小さな頭に口付けた。


 駅について、民宿からの迎えのシャトルで町の中心へ。海辺の道をマイクロバスはがたがたと進んだ。辿り着いた民宿は年老いた女とその息子夫婦が営んでいて、客は叶たち一組だけだった。
 荷物を置いて、町へ出る。潮と魚の臭いで満ちたそこは、静かで、さざなみの音が規則正しく響いていた。時折思い出したように、車が行きかい、垢抜けない様子の学生が自転車をこいで、叶とみちるを追い越していった。
まるで晩年を過ごす夫婦みたいに、叶はみちると手を繋いで町を歩いた。夏祭りの掲示がもう電柱に張られている。昭和の佇まいを残した商店街が春霞みの中、うらぶれた様子を晒している。夏の海水浴客向けに張り替えられた駅前のアーケード。春風に舞う土ぼこりと、石畳に斑模様を刻む桜のはなびら。
 町を散策する中、みちるはずっと無言だった。叶もだから、何も言わなかった。けれど薄々、感づいてもいた。この場所が、この町が、みちるにとって一体何なのか。
 ふいにみちるが立ち止まった。スタンドやクラブが並ぶ歓楽街。日が落ちるに従って点灯されたばかりのネオンサイン。ぎらぎらとしたその一角を、みちるが指差す。
「あそこ、時々遊びに行ってた」
 彼女は言った。
「あそこのママがね、私のお隣さんだったの。何日も何日もお母さんが帰ってこなくて、おなかを空かせて外に出た私を見つけて、あそこでおでんを食べさせてくれた」
 叶の手を握り締めるみちるの手は、とても汗ばんで、冷たかった。
 茜に染まり始めた町を、続けて歩く。魚を煮る匂いがどこからか漂っている。
 みちるはまた立ち止まった。アパートの前だった。
「あそこの二階の、左から三番目の部屋だった」
 民家に挟まれて、日の射さない、古い古いアパートだった。並ぶ木製の扉は、底が擦り切れて、隙間風が酷いことは予想が付いた。外に取り付けられた階段はペンキが剥がれ、赤錆が浮いていた。階段下に置かれたくすんだ水色のゴミバケツからはゴミが溢れていて、むき出しのコンクリートにぶちまけられた生ゴミを、鴉が突っついている。
 アパートの脇に植えられた桜も、苔むした幹がどこか不気味で、はらはらと花を散らすその木の根元の土は奇妙に真新しく、白骨が出てきても驚かないだろう。
「ここの町で、九つまで過ごした。毎日、毎日、お母さんを待ってた」
 民宿に向かって海辺を歩きながらみちるは言った。
 彼女の母親の話を聞くことは初めてではない。喧嘩の最中、あるいは、抱き合ったあとで。
 癒えぬ傷をなぞるように、互いの過去を語り合った。みちるは泣くことはなかったけれど、いつも目を赤くして、母親のことを語った。今日も、そうだった。
「ある日、出かけるわよって、お母さんが言った」
 それからの経緯を、叶は無論知っている。
 それを、みちるも知っている。
 けれどみちるは、初めて叶にそれを打ち明けるのだというように、とつとつと、言葉少なく、遠い日をなぞった。
「そして辿り着いたあの町で、店長のところで、私にばいばいって言った」
 育ての母と思っていた女がおびえた目で自分を見下ろし、そして逃げるように玄関から飛び出していった日を、叶もまだ昨日のことのように覚えている。
「みちる」
 叶はみちるの背に言った。
「僕はいなくなんないよ」
 凍えた彼女の指先を握る手に、力を込める。
「いなくならない」
「でも、叶、もてるし」
「あのさー僕がもてるのはすごく今更じゃん何言ってんの? その中でみちるを選んだんだからさ」
「でも大学行ったら、また世界が違うと思うし。今は、同じ町にいるから、ずっと一緒だったから、二人だけだって、勘違いしてるだけかも、しれないし」
「勘違いじゃないよ。そんなはずないじゃん。そりゃみちるは考え方後ろ向きだし、すぐ僕に手上げるけどさ、ご飯作るの上手だし、抱き心地はいいいだっ!!」
 どが、と蹴りを入れられて、叶は顔をしかめた。振り返ったみちるが唇を引き結んでぶるぶると震えている。
「だからさぁ、すぐ手をあげんなよ暴力女」
「手じゃないわ足よ、この助平」
「いや、だから、男が助平なのは普通だから」
「変態」
「どうせ変態だよ……」
 は、と嘆息して、叶はみちるを抱き寄せる。
「まったく、駄目になるんだったら、もっと最初から、喧嘩しまくってた時点で、そうなってるよ。殴り合いまでしてんだよ、僕ら。いっとくけど、大学行こうが社会にでようが、そこまでやりあえる女が他にいるって、僕には思えないね」
 おびえているのは自分のほうだ。高校でだって同級生がみちるにちょっかい出すたびに気が気でなかったのだ。自覚していないが、彼女もまた異性に好かれるたちなのだから。
「かなえ」
 みちるは叶の胸に顔を埋めて呻く。
「ばいばいしないでね」
「うん」
「いなくならないでね」
「うん」
「わたしを、ひとりにしないでね」
「うん」
「おいて、いかないで」
「うん」
「かなえ」
「うん?」
 叶の背中に回された少女の手が、強く、叶の衣服を握り締める。
「かなえ、かなえ、かなえ」
 布がきしみを上げた。
「はなれたくないよぉぉぉおおぉぉぉ……っ!!」
「うん」
 叶はわんわん泣く少女の頭を強く抱いた。
 海に、夕日が涙のように溶け堕ちていった。

BACK/TOP/NEXT