Simple Site

12 原点

 首都圏の大学に無事合格し、ひとり暮らしを始めることになった。
 ベッドに腰掛けた遊はぼんやりと壁際の本棚を見つめていた。勉強机とセットになった作りつけのそれには高校の教科書や参考書の類がびしりと並んでいる。その背はどれも手垢でうす汚れていた。
 遊は高校を編入した。初め通っていた高校と進学校として名高かったらしい卒業した方とでは偏差値に雲泥の差があって、いまさらながら、よく編入できたなと自分に感心する。おかげでよく勉強した。そして、働いた。
 昨日の夜は働いていたホストクラブでちょっとした送迎会をしてもらった。遊と音羽、両方がいなくなるからだ。髪を切られるトラブルだとか、ドンペリコールしてもらったりだとか、その後も客同士の権威を掛けたファッションショーだとか椀子そば大会だとかわけのわからないものに腐るほど巻き込まれた職場だが、仕事ひとつとっても飽きがこず、常に賑やかだった。
 親の手伝いさえ億劫だった自分に労働の楽しさを教えた場所だ。
 そしてこの部屋。売られて買われて与えられたたったひとつの自分だけの空間。この部屋に籠って泣いてもおかしくなかった。けれどこの部屋に帰るのは、着替えと寝るときぐらいなものだった。
 遊は立ち上がって自室を出た。階下に降りて、何となしに、部屋を順番に見て回る。風呂場や、洗面所や、台所を。最後に居間を。八畳敷の和室にはホットカーペットと年期の入った傷だらけの木製テーブル。その天板の上に置かれた籠は空っぽ。ざらめせんべいを補充しておかなきゃなぁ、と暢気に思った。液晶テレビは沈黙していて、カーペットの上に投げ出されたリモコンが所在なさげだ。誰だ、ホットカーペットでごろごろしたままテレビを付けていた奴は。叶か。
「おい」
 呼びかけのあった背後を遊は振り返った。誰かはわかっている。音羽。遊と同様にひとり暮らしを始める彼は、部屋の片づけをしていたのだ。
 彼は遊の手元を指差した。
「リモコン、カーペットの上に置きっぱなしにするなよ。お前すぐ踏むからな」
「置きっぱなしになってたのを今拾ったところだよ! なんで私が踏むこと前提なの!?」
「冬に踏んで壊したのは?」
「……どーせわたしでしたよすみませんね……」
 ぱっきりとリモコンをひとつ駄目にして泣く泣く小遣いで買い直したのだった。
 肩を落とす遊を、音羽は笑った。
「謝れるようになったら上等だ。成長したな」
「そりゃどーも。音羽もそこで笑うなんて、可愛げがでてきたよね?」
「相対効果だろ。お前がかわいげなさすぎるんだ」
 ああいえばこういう。
 遊はため息を吐いて音羽を見上げた。
 出逢った当初から何かに付けて衝突を繰り返した妹尾家の次男は、無人の居間をじっと見つめていた。彼は昔から少年という表現がまったくもって似合わないほど大人びていたが、ここ最近は特に妙な落ち着きを得たようにも思う。彼の瞳はいつも凪いでいる。遊が感じているような、新しい生活に対する漠然とした不安などどこにもない様子で飄々としている。
 見られていることに気付いたらしい。音羽が遊に視線を下げ、訝しげに眼を眇めた。
 いつもであれば皮肉のひとつふたつがすぐに投げつけられるところだが、音羽はどうしたことか、ぽん、と遊の頭に手を置いて、踵を返した。
「ここは突然無くなったりしない。そんな顔するな」
「……そんな顔ってなにさ?」
 遊が頭に手を置いて呻くと、音羽は足を止めて振り返った。
「二度とここに帰って来られないような顔だ」
「……そんな顔してないし」
「そうか? ……まぁいい。おまえ、片づけおわったのか? はやくおわらせないと」
 音羽の言葉を遮るように、玄関の引き戸の向こう側から車のエンジン音と賑やかな声がした。買い物に行っていた棗たちだ。
「あぁ、ほら、帰ってきた」
「ただいまー!」
 がらがらがらとかしましい音を立てて戸がひらかれ、複数の足音が狭い玄関に弾ける。まず顔を見せたのは妹尾家の末っ子だった。
「あれー、ユトちゃん! 僕をお出迎え?」
 明るく笑いながら靴を脱ぎ捨てる叶の背後からぬっと顔をだしたのは棗だ。彼女はそのうつくしい顔をしかめながら、遠慮のないげんこつを末弟の頭に喰らわせた。
「叶! あんたひとりさっさと行くんじゃないわよ!」
「っつた! 棗はさぁ、なんで口より手足が先に出んの? 手ぶらでは下りなかっただろ!?」
「一番軽い荷物だけもってね。台所まで運びなさい!」
 すでにあがりかまちを踏んでいた棗にぱんぱんに膨らんだ買い物袋を、強引に叶に押し付ける。彼はひとかかえもある荷物の重量にふらつきながら踏鞴を踏み、おもたっ、と呻いた。
「すごい荷物だね……」
「今日はすき焼きだって。お肉いっぱい買ってきたよ!」
「野菜もね。音羽、あんたはこれ、持って行って」
「こんな大量のビール、誰が飲むんだ? 棗。胎教に悪いからよせ」
「なんで私が飲むって決めつけてんのアンタ、むかつくわね……」
「ただいまー。なんだまだ玄関にいたの棗」
「るさいわよ、隻」
 車を車庫に収めてきたらしい隻もまた、腕にふくらみきった買い物袋を抱えている。何本も突き出た長ネギの青々とした葉の真横にイケメン中のイケメン的美形な顔がある様はどうにもシュールだ。なのに絵になる。妹尾家の人間はたいてい、腹巻にステテコパンツをはいていてさえ絵になるひとたちである。いや、そんな姿はあえてみたくないが。
 妹尾家のご長男は遊ににっこり笑いかけた。
「聞いた? ユトちゃん、今日はすき焼きだって」
「聞きました」
「音羽、まだ車に積んであるから袋とってきて」
「……ったく、どれだけ買い込んだんだ」
「ユトちゃん、片づけ終わったら手伝って。豚汁とポテトサラダも作るから」
「わかった。なんだか冬メニューだね、ねーさん」
「大勢でひとつの鍋をつっついて、うるさくして美味しいのが冬メニューのいいところよ。ウチにぴったりでしょ」
「うん」
 遊は深く同意した。
「ぴったりだね。……確かに鍋ってひとりで食べてもおいしくないし」
「あらそう? ひとりで食べたことあるの?」
「え? ……ない。いや、さっきのはイメージね? イメージ」
 やはり鍋ものはおひとりで食べるシーンを想像するとなんとなくむなしいものがある。
 だが天下の長女はまったくもって平気らしい。
「すき焼きはひとりで食べてもおいしいわよ。肉を独占できて。ユトちゃんも試してみなさいよ。ひとり焼肉」
「……ひとり焼肉……」
「ひとり鍋もひとりすき焼きもいいもんよ。ただずっとひとりは嫌でしょうから……」
 買い物袋を両手に提げて、棗が言った。
「そしたら帰ってきなさい。いつでも」
 この家に。
 ちょうど、音羽が玄関に戻ってきていた。
 ほらみろ、と彼の目が笑っている。
 うるさいよ、と心の中で反論し、遊は棗の手から荷物をひきとった。
「持つよ」
「いいわよ。先に片づけ終わらせてきなさいよ」
「もうほとんど終わったよ……置いていくものが大半だし」
「そう」
「必要なものだけもっていくから。また、帰ってくるし」
 ここが私の帰る場所だ。
 わたしのいえだ。
 何も寂しく思う必要はない。
「あぁああああ割れた!」
「ばっか! なんで乱暴に置くんだよ!」
「玉子入ってるなら入ってるってそういってよ……」
 台所から響く隻と叶の不穏なやり取りに、棗が雷を落とす。
「あんたたち! なにしてんのよ!!」
 音羽がやれやれと首を振って黙々と台所に荷物を運び入れざま、じゃまだ、と遊を押し退けた。なにを! と怒りかけ、つい、笑ってしまう。



 わずわらしいほどにかしましい。
 どこにいてもわたしはわすれないだろう。
 けれどわたしをかぞくとしてうけいれてくれた。
 そしてじゆうにはばたけとおくりだしてくれる。
 ここがわたしの原点。