快楽する色彩
女一人を肩に担いだまま、鍵を開けるのは労苦を要した。
夜遅く、酒も手伝っているのだろう、不安定な体勢にもかかわらず、遊はすやすやと眠っている。昔、父親のクラブで働いていた経験から、酔って正体を失った女がぐにゃぐにゃで扱いづらいということは知っていたが、自分の部屋まで運び介抱するとなると多少勝手が違ってくる。幸い遊はそこまで重い人間ではなかったが、それでも部屋の寝室に落とすように女を横たえたときには、すでに汗だくになっていた。
「おい」
呼びかけてはみたものの、遊はセミダブルの寝台の上に横たわって、起きる気配を見せない。
腹立たしいほどに気持ちよさそうな彼女の頬を、音羽は軽く叩く。
「遊、起きろ」
「うー」
叩かれたことで意識が呼び起こされたのだろう。遊は呻き声を上げながら寝返りを打った。うっすらと、瞼が上がる。
「……ねむぃ」
「判ってる。とりあえず化粧落として服を着替えろ」
「ふくないー」
「貸してやるから。着替えるのが無理だったらせめて化粧だけ落とせ。泣くのはお前だぞ」
「うん。おとすー……」
そういって彼女は起き上がろうとするが、力が入らないのか、もそもそとその場で転がるだけにとどまってしまった。うつ伏せで枕に顔をうずめる女に、音羽は嘆息する。
「遊」
「ねゆー」
いつもの勝気な彼女とは違い、酒に酔っ払った彼女は本当に幼い。あまり飲みすぎるなと厳命しているのに、彼女は一番仲のいい仕事の同僚たちとバーに行き、しこたま酒を飲んだらしい。
確か以前遊が泊まりに来たとき、置き去りにしていった洗面具一式が残っていたはずだ。そう思い返してバスルームへと急ぐ。バスルームの隣に備え付けられた戸棚には、案の定、透明なビニルケースの中に纏められた洗面具が入っていた。
「化粧落としは……と、これか」
旅行のときだけ使っているらしい、クレンジングオイルが含まれたペーパークロスのパッケージを選び出して、寝室に引き返す。扉を開けてぎょっとした。遊がぼーっとした様子で、寝台の上に座り込んでいたからだった。
「どうした?」
歩み寄りながら尋ねる。遊の焦点は相変わらず合っていない。
ただ、目の前に腰掛けると、とろりと目を細めて笑った。
くすくす笑いながら動こうとしない彼女は、音羽の手元にあるクレンジングシートを一瞥し、そして目を閉じた。
化粧を、落としてくれ。そういわんばかりに。
嘆息して、シートを一枚引き出す。ベッドの上に胡坐をかき、改めて遊に向き直った。
飲みに行く前に、一度化粧直しを施したのかもしれない。紅こそ少し取れていたが、それでも女の目元や口元を、美しい色彩が彩っている。
肌によくなじむ、ブラウンのアイシャドウ。熟れた桃の色を思わせる頬紅。口元を彩る、塗れた紅。
艶のある、化粧。
こんなものを、彼女は一体いつ、どこで学んできたのだろう。
「……どうやって落とすんだ?」
落とせと顔を突き出してくるのはいいが、女の化粧など生まれてこの方、落としてやったことなどない。疑問は知らずのうちに、独り言として唇から漏れていた。
「めもとからおとす」
舌足らずな口調で、遊が音羽の疑問に応じた。
「めもと?」
「そうー」
彼女に指示に従って、音羽は前髪を指で払ってやって、シートを肌に押し当てた。あまり擦りすぎもよくないと聞いたことがある。力加減に四苦八苦していると、口先を尖らせた彼女から叱責がとんだ。
「ちゃんとしてよぅー」
嘆息し、すこし力を入れて、まずは濃い部分だけを拭う。一枚目のものが全て汚れてしまうと、それをくずかごに投げ入れて、二枚目を引き出した。新しいもので、全体を丁寧に拭っていく。
「きもちいい……」
顔を拭われるひやりとした感覚が心地よかったのか、遊はうっとりと呟いた。
ひとつひとつ。この世界で生きるために彼女が纏った色を、自らの手で丁寧に削ぎ落としていく。
徐々に、顕わになる、素の彼女を構成する、柔らかい色。
少女然とした若さをどこか引きずる顔が顕わになる。
「遊」
呼びかけに応じて、女は嫣然と笑った。薄く開かれた瞼の狭間からのぞく瞳は、どこか溶ける
ような眼差しを宿しながらも、はっきりと音羽を映し出している。ベッドボードに置かれたルームランプの柔らかい橙の光に照らされる、酒に上気した頬は、彼女が普段みせることのない女を匂わせた。
ふと、思う。
この女は、本当に酩酊しているのだろうか。
それとも、自分が酩酊させられているのだろうか。
女の唇を指の腹でなぞる。そこにあるのは、音羽自身が、いらぬ色彩全てを削ぎ落とした、透明な赤だ。この色を誰にも見せたくないと思う。女の手で覆い隠されたこの色を、剥いでやることができるのは自分だけだとも。
音羽は笑った。
紅に唇を寄せる。そして思う。
あぁ、この色彩は、無様に溺れていく自分たち男を、常に楽しんでいるに違いないのだ、と。