弾丸旅行(FAMILY PORTRAIT)


 仕事から帰宅すると、遊がソファーで丸まっていた。この女がふらりとやってくるのはいつものことで驚きはしない。自分も彼女の部屋を前触れなしに訪ねることが多々あるので、咎めるつもりもない。ただ女の放つ薄暗い空気だけは如何ともしがたかった。

「どうした?」
上着を椅子の背にひっかけ、ネクタイを緩めながら、音羽は遊に問いかけた。
「八重ちゃんが今日、目の前で倒れたんだ……」
 不安そうに彼女は言った。
「八重子さんが? 大丈夫なのか?」
「うん。ただの貧血みたい。今日は念のため入院して、明日検査するって。でも怖かったぁ。いきなり真っ青になって ばたーんって倒れるからさぁ」
「何事もなければいいな」
「うん……」
 八重子は遊にとってとりわけ仲の良い同僚だ。親友といってもいい。あともうひとり、静(しずか)と三人で、遊はよくつるんでいるようだった。
 過労か、ストレスか。どちらでもありそうな気がする。妙な病気でなければよいが。
 音羽は何気なしにカレンダーを見つめ、ふと思い立って遊を振り返った。
「……そういえば、明後日どうするんだ?」
「明後日?」
「旅行いくことになってただろう、お前」
「あ」
 この週末、金曜の夜から日曜までの日程で、遊は八重子と旅行に出かけることになっている。否、二人とも現地で仕事があり、そのまま滞在して遊んで帰る、という言い方が正しい。
「わ、すれてた……」
「さすがの八重子さんも万が一明日退院したとして、その翌日に遊ばないだろう」
「だよね。仕事も休むだろうし……ううーん……」
 あれほど楽しみにしていた旅行を忘れるとは、よほど八重子の倒れた様子がひどかったのだろう。
 唸る女を放置して、音羽はキッチンに入り、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。スーツを片づけたほうがいいのはわかっているが、今日はとにかく疲れた。最近付いた部下が有能でなければ午前様は免れなかっただろう。
 缶の中身を一口で半分ほど減らした音羽に、背後から声がかかる。
「おとわー」
「なんだ?」
 晩酌の肴を探そうと立ち上がりながら応じる。
「今週、ひま?」
 そして女の問いに、露骨に眉間に皺を刻んだ。
「……はぁ?」


 かくて、金曜日。仕事を終えて早々、音羽は遊と合流するために、新幹線に飛び乗ったのだった。


 秋口とはいえ、まだ日中は残暑厳しい。そんな中、遊は元気だ。この女はとにかく元気だ。昔から。
 通りに溢れる人の群れをものともせず、あっちへこっちへ動き回る。瞬間移動の如く土産屋から土産屋を渡り歩くので、目が離せない。犬のように首輪とリードを付けてやりたいと思ったことは一度や二度ではない。
 子供に振り回される親のように、とてつもなく疲れる。
 それでも、この女から離れられぬ理由はなんなのだろう。いまさらの問い。答えはとうに出ているが口に出すことは躊躇われる。音羽は遊の後方を歩き、滅多に来ることのない古都の風景に目を細めた。


 清水寺に行きたいとせがむので、連れていったら、満面の笑みで彼女が問う。
「ねー音羽。ここどこだか知ってる?」
「……清水寺」
 とうとう頭おかしくなったのかと胡乱な目を向けると、彼女はにんまりと口元を歪めた。
「ここはねー、音羽山というのだよ」
 知識をひけらかす女は、ひどく楽しそうだ。
「だから来てみたかったんだよねぇ」
 そしてなにが『だから』なのか問いただしたい気分をぐっと堪え、ひどい女だ、と音羽は改めて認識した。
 そう。遊という女はまったくもってひどい。
 こちらが振り回されることをわかっていて、話をふっかける。それは断ってもかまわない、という軽さだ。事実、たとえばこの旅行を音羽が疲れを理由につっぱねたとしても、遊は笑って納得し、別の友人に話を持ちかけるのだろう。
 実際、音羽がこうやってなんだかんだと女に付き添うのも、面倒見がいいから、で片づけてしまっているに違いない。
 心の底では、自分が彼女に構う理由が、単なる『面倒見のよさ』で片づけられぬのだと知っていながら。
 この女は無邪気にこちらを試す。
 よくもこんな悪女に成長したものだ。
 呆れればいいのか。笑えばいいのか。
 遊が訝しげに音羽の顔を覗きこむ。
「どうしたの? お腹すいた?」
「お前みたいに食い意地張ってない」
「なにをいうか。失礼な。……あっ、この近所に美味しいお茶屋さんがあるって。よってこよってこ」
「失礼な、と言った傍からそれか……?」
 しかし遊は音羽の突っ込みを聞いていない。真剣な目で可愛らしい装丁のガイドブックを睨んでいる。
「おい、遊――……」
「このお茶さぁ。この間、音羽が物産展で買ってきてたやつ。おいしかったよねぇ。買えるといいな。……あ、ごめん。何か言った?」
 きょとんと目を丸めて面を上げる女に、音羽は頭を振る。
「いや。……八重子さんへの土産ものはどうするんだ?」
 当初、遊に付き合う予定だった彼女の親友は元気に退院したそうだ。
「ふっふっふー。抜かりなく聞いてきたよ!」
 遊が飛び跳ねるように歩き出しながら言う。
 やつはしでしょ、ちょこでしょ、かりんとうでしょ、おつけものでしょ。
「そんなにたくさん買って、送るのか?」
「え? 持ってくれると思ってた」
 音羽は無言で遊の額をべちりと叩いた。暴力反対、と抗議の声が、観光客でにぎわう寺の境内に響き渡った。