おどれないからこそ(女王の化粧師)


 主人の苦手なものに踊りがある。詩歌も苦手らしかったが舞いは絶望的だった。どんな名手を相手にしても足を踏みつけていく――とはいえ、一度だけ主人がまともに踊り終えた姿を見たことがある。代行の青年が練習相手を務めたときのことだった。
 代行は何事も器用にこなすが、舞まで名手とは。素人目からみても、代行の足裁きは見事で、一度たりとも足を踏ませなかった。むしろ、主人の舞が上手く見えてしまうから不思議だった。
 感心する自分に男は手を差し伸べる。踊ってみますか、と男は尋ねた。初めこそ全力で辞退を申し出たものの、結局、好奇心に負けてその手を取った。踊ったことなどないと前置いて。
 夕暮れの部屋。男と自分の二人だけだった。男が手早く、手の位置はそこここ、足運びはこう、と説明する。ぎくしゃくと指示に従う自分の手を取り、男は笑う。だいじょうぶですよ。ただ、まかせてくれればいい。
 こつ、と靴音がなる。男が自分の身体に力を加える。驚くほど足がよく動いた。どこへ足を運べばいいのか考えずとも、最良の場所につま先が向いていた。
 たのしい、と笑った。こんなにたのしいものだなんてしらなかった。そう、と男も微笑んだ。わたしも、はじめてたのしいとおもいましたよ。



 時は移ろい、宰相と主人が踊りの練習に勤しんでいる姿を眺めている最中、騎士の男が踊りを教えようかと申し出た。退屈していると勘違いしたらしい。
 いいえ、と首を横に振る。おどれなくていいんです。おどれないからいいんです。騎士の男が不審そうな顔で立ち去った後、静かに面を伏せる。
 おどれないからこそ、もうだれも、あのやさしいきおくをけがせない――その愚かさを、人はただ恋と呼ぶ。