彼が望むならば(金環蝕)


 ――十二の年、初めて人を殺した。



 魔力の槍に上下左右から貫かれて宙吊りになっている男を、ヤヨイは見つめていた。血液が力を失った男の両脚を伝って流れ落ち、地面に溜まりを作っている。驚愕に見開かれたまま閉じることを忘れた目が、ヤヨイを見ていた。
 ヤヨイと男の見つめ合いはそう長くは続かなかった。将軍が愛用の剣を鞘に収めながらヤヨイたちの間に割り込んだためだ。
「ヤヨイ、術を解け」
 将軍が正面に膝を突き、ヤヨイと目の高さを合わせて囁く。ヤヨイは、はく、と息を吸って、吐くと同時に術を解いた。男は将軍の背後で自らの血の中に墜落した。赤い飛沫が跳ねた。



 将軍がヤヨイを従者に指定したのはこれで三回目だった。一回目は遠足のようだった。二回目は事務仕事の手伝いだった。三回目は、将軍の身を偽るための付属品として連れ出された。
 将軍はとある地域を内偵していた。そこではいくつかの民族が睨み合って暮らしており、紛争が絶えない。協会が間に入り和平が結ばれそうになると、どこからともなく裏切り者が出てご破算となる。
 平穏になってもらっては困る何者かが、戦乱を煽っているらしい。
 歴史を紐解けばよくあることだ。けれど今回は和平のために尽力した腕のいい協会員を何人か失い、結果、将軍が首を突っ込むことになった。
 将軍は危険な分だけ利益の見込める戦場に食糧を売り込みにきた、男やもめの商人を演じていた。その娘役が、ヤヨイ、というわけだ。
 仕事は順調だった。けれど楽というわけではなかった。将軍に付いていきたいのなら、立派な魔術師になること――その意味をヤヨイは今回とみに噛み締めた。戦火に繰り返し舐められた土地は荒れ果て、人の心は荒んでいる。傭兵たちは血と女に飢えた獣で、十二のヤヨイに涎を垂らしながら襲いかかってくる者も多かった。ひとりのときヤヨイは結界を張って、出来る限り存在を薄くして生活することを求められた。苦行だった。
 たった十日ほどのことだったのに。
 今日で引き上げる。帰り支度を整えておくように。
 そう言われた日の昼に、ヤヨイは男を殺した。
 気の緩みから、結界に綻びが出ていたらしい。
 男は借間に勝手に踏み込んできて、ひとり片づけをしていたヤヨイを二、三殴って、外へ連れ出した。ヤヨイ自身にも見覚えのある傭兵だった。彼は以前から将軍と共にいるときのヤヨイを盗み見ていたのだ。
 気絶しなかったのは、殴られる間際にとっさに結界を張り直して、衝撃を削ぐことができたから。
 男を殺したのは、ヤヨイの危険を感じて戻ってきた将軍に、男が剣を振り上げたから。
 将軍は不老不死だとか。男のなまくら剣なぞやすやすと避けられるとか。そういったことにはいっさい考えが及ばなかった。
 ただ、このひとに刃をむけるなんて、という、怒りが、ヤヨイを支配した。ヤヨイは男を殺していた。



 将軍がヤヨイの頬を撫でる。そこには労りが込められている。
 反射的に、ヤヨイは叫んでいた。
「ヤヨイは、平気です……!」
 将軍が目を丸くする。ヤヨイは構わず続けた。
「将軍。ごめんなさい。気を抜きました。将軍の、お手を、煩わせてしまいました。ヤヨイは平気です」
 本当は、泣きたかった。
 自分の術が鋼よりも鋭く人を貫き、死に至らしめるのだという事実に。初めて経験した生臭い感触に。
 けれど、泣いて、震えれば、立派な魔術師、では、なくなってしまう。
「ヤヨイは、きちんと、自分の身を、守れます。ちゃんと、こうやって。ちゃんと」
 ころせます。
 だからおいていかないでください。
 仕事を、これっきりにすると、いわないでください。
「知ってるよ」
 将軍は微笑んだ。子どものヤヨイの胸でさえ逸らせる、ひどくあまやかなその微笑は、将軍をとても残忍に見せた。
「よくやった」
 将軍はそう囁いて、ヤヨイを抱き上げる。
「さすが、俺のヤヨイだ」
 彼の誇らしげな低い声に、ヤヨイは、殺人への嫌悪を忘れた。
 そして思った。
 わたしは彼が望むのならば、なんだってできるだろう、と。