夢の終わり(女王の化粧師)


 気分転換の散歩といって庭に出ることは多々ある。が、実際の目的は別にあった。窓を猛禽の鳥が横切る。それが、合図。
 遣い魔は、自分に常についている。そして自分が彼に触れて話した事柄だけを、対であるもう一羽を経由して主である梟にそれを伝えるのだ。
 言葉だけではなく、遣い魔が目撃している全てが、梟に伝わってしまっているのかどうかまでは、知らない。


 しばらく遣い魔の姿を見なかった。国から何も連絡すべきことがないということなのだろう。女王選出に向けて騒がしくはあるが、比較的穏やかな日々が続く。が、その日は朝から書類の整理に追われていて、息付く暇も無かった。
「散歩でもしてきてはいかがですかな?」
 ようやっと処理を終えたとき、執事長が言った。日頃寡黙な彼がそのように口を開くことは、珍しいことだった。
「今日はよい陽気ですよ。緑と花の匂いが芳しい。風もさわやかです。疲れを飛ばしてくれることでしょう」
 そういって彫り深い皺の刻まれた顔を微かに緩め散歩を勧める彼に、ヒースは大人しく従うことにした。


 祭りに参加するものたち特有の、一体感、というものだろうか。ここ最近とみにミズウィーリ家の人々の態度が軟化してきたように思える。冷たく当たられてきたわけではないが、自分と彼らの間には壁があった。それは自分自身が築いたものであったし、同時に彼らが望んだものでもある。しかし、最近は異物としての認識が取り払われてしまっているようなのだ。あまりよくない傾向だ、と思いながらも徐々に馴染み、穏やかな日々に安堵すらしている自分を、見ないふりをしていた。


 庭に入り、低木の密集する木陰の傍らに腰を下ろす。執事長が述べた通り、風はからりと乾いて気持ちよく、それに乗せられて花の匂いが香っていた。野薔薇を御印としていた聖女を崇める西大陸全体の傾向ではあるものの、この国では特にいたるところに、開花時期の異なる薔薇が植えられている。あの花特有の、甘やかな。そしてそれに入り混じる緑の香りは、水を庭先に豊富に引き込める貴族の家ならではのものだろう。
 いつのまにか、うとうととしてしまっていたらしい。
 急に鼻先に香った薔薇の香りとがさりという木立を掻き分ける音に、反射的に飛び起きる。すると、垣根の狭間から薔薇を腕一杯に抱えて顔を出す、化粧師の姿があった。
「……ディアナ」
 長らく性別を偽っていたという少女は、真名を呼ばれて嬉しそうに微笑んだ。
「ヒース、こんなところでお昼寝ですか?」
「寝るつもりは、なかったんですが」
 眉間を指で揉み解して溜息を突く。こんなに近づかれるまで、気づかないなどと。警戒心が薄れている証拠だ。
「お疲れですねぇ」
 彼女の言う通りだ。疲れが溜まっているのだろうと、思った。
「……貴女は何をしていたんですか? ディアナ」
 傍らにちょこんと腰を下ろした少女を見やって、ヒースは言った。その腕には、今、手折ってきたばかりらしい、大小色も様々な薔薇。
「あぁ、これですか?」
 腕の中の花に視線を落として彼女は言った。
「魔術の処理を施して長持ちさせる、もともとは生花の髪飾りがあるんですけど」
「あぁ、先日のガートルード家でマリアージュ様が付けていた?」
「そうです。あれ、ものすごく高いものなんですよね。目玉転がり落ちるぐらい。数も少ないし、好きにしていいよっていわれたんですけど、はさみいれたりするときに手が震えるんで、あんまり使いたくないんですよね。見目はものすごく綺麗なんですけど」
「それとその薔薇に何の関係が?」
「昨日アルヴィーと買い物にいったときにそのこと話したら、簡単に作れるよって言われて」
「は? そうなんですか?」
 化粧師は頷く。まぁあの魔術師が実は伝説の魔女だったとしても、自分は驚かないが。
「今日の午後にお迎えだすから、それまでにお花用意しておいてねっていわれたんです。一抱えぐらい。それで、許可貰って、お花貰ってたんですよ」
「お迎え、ですか」
「一体どんなお迎えがくるのか、わからないんですけど」
 そういって彼女は、薔薇を抱えなおした。
「……ヒースはお散歩中だった?」
「えぇ。執事長に言われて」
「へーキリムさんが勧めるのって珍しいんじゃないですか?」
「珍しいですね。今までになかった」
 ですよねぇ、と少女は笑い、ふとこちらの顔を覗きこんで、思案顔になる。
「あぁ、でもわかるなぁ。勧めたくなるの。すっごく、疲れた顔していますから」
「……そうですか?」
 うん、と頷いた化粧師は、花を抱えていないほうの手をこちらへ伸ばしてきた。
 柔らかい手が、頬に触れる。
「だってすっごく肌荒れてますよー」
「……そういう見方するんですか」
「化粧師ですから」
 少女の手を頬から剥がして握る。自分の手よりも一回り小さくて、温かな。
「せっかく綺麗なのに、損ねたらもったいないです。目の下に隈もできてますよ。睡眠とらないと肌は荒れますから……寝てます? ちゃんと」
「寝てますよ。今、寝てました」
「……寝台に入って寝てください」
 自分を案じて呆れた目をするこの少女を抱いてなら。
 眠れるだろう。深く。夢も見ずに。
 腹の底で一瞬だけ渦巻いた欲求に苦笑する。女として求めるというよりも単純に、彼女の柔らかさと温かさをこの腕に留めてならば眠れるだろうと思った。
 夜は、冷えるから。
 深い暗闇を通じて。
 悪夢が、忍び寄ってくる。
「あ、お手入れでもしましょうか? 時間が空いたときに」
「いやいやいやそれはいいですそれは」
 全力で辞退したこちらに、彼女はそんなにいやですかね、と首を傾げた。
「じゃぁ私、行きますね」
 少女は立ち上がる。
「ゆっくり休んでくださいね、ヒース」
 ふわりとした笑みに、心が安らいだ。
 いつからか、彼女の存在に安寧を得るようになった。
 こちらがずっと続く現実なのだと、錯覚するように。
 彼女を引き止めようか迷い、結局は見送る。こつりと木の幹に頭を寄せ、花の残り香を堪能する。気持ちよさにまたうとうととしかけたところで、羽音が響いた。
 木立に留まる、鳥の黒い目が、こちらを射る。
 頭が急に、冴えてくる。鳥を見返し、ヒースは嗤った。
 こみ上げてくる、泣きたいような、衝動に。



 そうして、再び認識する。
 どちらが生きるべき、現実なのか。